知識の哲学――知識の正当化
知識の哲学=認識論(epistemology)
現代の知識の哲学
知識の古典的定義
プラトンの「知識」の定義
〈正しい〉〈思わく〉というものも、…… それほどたいした価値があるとは言えない――ひとがそうした思わくを〈原因(根拠)の思考〉によって縛りつけてしまわないうちはね。…… そして、こうして縛りつけられると、それまで思わくだったものは、先ず第一に「知識」となり、…… 知識は、縛りつけられているという点において、正しい思わくとは異なるわけなのだ。
――プラトン『メノン』98A(藤澤令夫[訳])
知識=原因の思考+正しい思わく=justified true belief
知識の古典的定義
「知識(knowledge)」=③「正当化された(justified)」②「真なる(true)」①「信念(belief)」
知識=know(知っている)と言い換えてよい
①「信念」――Aさんは、「SはPである」と思っている/信じている
=think(思っている)と言い換えてよい
命題の述語Pをカテゴリー分けする作業が哲学
②「真なる」――実際に、「SはPである」
③「正当化された」――Aさんが「SはPである」と思う/信じるに足る理由/根拠がある
正当化のアプローチに2つ:合理論/経験論
合理論:デカルト~ライプニッツ
経験論:ロック~ヒューム
ヒュームの懐疑論では因果関係そのものは我々は捉えられない
感じているのは一種のまやかし、習慣にすぎない
今まで見てきた烏が黒いからと言って、次の烏も黒い必然性は全くない
これを乗り越えようとしたのがカントの超越論的観念論だが、これはカントの文脈の中で転回される概念でもあるので、カントを嫌う人々はプラグマティズムや分析哲学に傾倒していった
正当化の在り方としての内在主義と外在主義
姉妹がいて、テーブルの上に箱があるとする
姉と弟が口を揃えて「シュークリームだ!」と言ったとする
姉は箱の中身が何かは知らないが、なんとなく直感的に発言したとする
姉は弟になぜ箱の中身がシュークリームだと「思った」のかを尋ねる
弟が「おかんが言ってた」(justified)と返す
姉は「なんやあんた「知ってた」んか」と返す
姉から見た時、この瞬間弟の状態は「思っていた」→「知ってた」に変わる
「おかんが言ってた」はなぜ正しいのか?
e.g. 「おかんは嘘つかない」
このように正当化条件を遡及した時に、最終的に他のものによって根拠づけられない、それ自体で正しいなにかが存在する
この「それ自体」をめぐって2つのアプローチ
内在主義(合理論、表象説):明晰判明な自身の概念/観念
デカルトなど
外在主義(経験論、実在論):外部世界との信頼できるシステム
この世界のありようを我々が受動的に受け取る、その世界の状態と自分の受け取られ方が信頼できる
科学においては仮説演繹法が用いられる
仮説(=科学者の観念に依存)を立て、それを下に予測を立てる(演繹)
実験、観察をして検証/反証を行う
検証されれば、仮説のprobabilityが上がる
反証されれば、仮説の棄却・修正などがなされる
ケプラーが楕円軌道を仮説する
ケプラー以前、ブラーエがめちゃくちゃ眼が良かったので運動を記録していた正確なデータに基づいた仮説
しかし、ブラーエは楕円軌道を思いつけなかった
→データから帰納推論する場面で科学者の慧眼が求められる
ゲティア問題
ゲティア問題(知識の古典的定義への反証事例)
ある就職先に、「スミス」と「ジョーンズ」の二人が応募している
「スミス」は次の命題(【α】と【β】)を真だと考えるべき(=正当化された)理由をもっているとする
【α】「採用されるのはジョーンズであり」かつ「ジョーンズのポケットには 10枚の硬貨が入っている」
会社の社長が「ジョーンズを採用するぞ」と明言したのを「スミス」は聞いたのであり、しかも「スミス」は、その10分前に「ジョーンズ」と一緒に「ジョーンズ」のポケットの中のコインの数を数えたから
【β】「その就職先に採用される男は、自分のポケットに10枚の硬貨が入っている」
「スミス」は【a】から【β】を演繹的に推論し、【β】を信じるようになった
ところが、「スミス」は気づいていないが、実際にはその就職先の採用者は「スミス」自身であり、しかも、これまた「スミス」は気づいていないが、「スミス」のポケットにもたまたま硬貨が10枚入っていたとする
→【β】について、「知識の古典的定義」の条件を満たしていることを確認する
「スミス」は【β】を「信じている」(belief)
【β】は「真である(実際に成立している)」(true)
「スミス」の【β】という信念は「正当化されている」(証拠+演繹的推論)(justified)
しかし、「スミス」が【β】を知っていたとはとても言えない
トマス・アクイナスの知識論――言葉と形象
言葉(verbum)と可知的形象(species intelligibilis)
人は身体と知性的魂を持つ
人が花を見た時、様々な情報を(物体の形相から)得る
花の全体をイメージする、そのイメージを表象内容(phantasma, representare)という
見た目だけでなく匂いや雰囲気も含まれる
表象内容から知性によって抽象し、「赤さ」「花」などを得る
それら情報と外的事物とのルートに当たるのが「可知的形象」である
それらを統合して、「花 is 赤い」(S is P)というものが「言葉」
こうした命題の真偽を重ねて、知識に至る(現実に矢印が戻るイメージ)
知性認識の媒介物
知性が何かによって知性認識するのには、二通りの仕方がある。一方は、形相的な仕方で知性認識するのであり、そしてその場合には、知性がそれによって現実態になるところの〈可知的形象によって〉知性は知性認識する。他方は、別のものを知性認識するために使用する道具によって知性認識するのであり、そしてこの仕方においては、知性は〈言葉によって〉知性認識する。というのも、知性が言葉を形成するのは、事物を知性認識するためだからである。
――トマス・アクィナス『自由討論集』第5巻,第5問,第2項第1異論解答
赤さのスペキエスが、赤さを認識する可能性がある知性に入ることによって、知性認識がworkし、「赤さ」の知性認識が現実態においてなされる
事物の類似(similitudo)
この知性認識された概念(intentio)は、いわば可知的なはたらきの終着点(terminus)なのだから、知性を現実態にもたらし、可知的なはたらきの出発点(principium)として考えられねばならない可知的形象とは別のものである。とはいえ、両方とも,知性認識された事物の類似ではあるのだけれども。
――トマス・アクイナス『対異教徒大全』第1巻,第53章
可知的形象が終着点から出発点に転化し、また新たな知性認識のためにループに入る
Componere et dividere
複合(S is P)と分割(S is not P)
知性認識の二段階
【1】[出発点]可能態にある知性は、「可知的形象」によって現実態にもたらされる
【2】[終着点]道具としての「言葉」が知性の内に形成され、その「言葉」によってわれわれは実在的世界という知性の本来の対象を捉える
表象説(representationalism)と直接実在論(direct realism)
「言葉」の表象説
「言葉」は、知性認識のはたらきを最終段階にもたらす道具・媒介である
「言葉」は、知性が〈能動的に〉形成した結果である
→したがって,「言葉」は、われわれの知性のうちにあり、意味論的な内容をもつ「心的表象」に他ならず、それゆえ、アクイナスは「表象説」を採用していると言える
二つの類似の順序関係 「可知的形象」の類似→「言葉」の類似
知性の形相であり知性認識することの出発点であるところの可知的形象が、外的事物の類似であるということを通じて、知性はその事物に似た概念を形成するということが帰結する。というのも、各々の事物は、それがどのようなものであるかに応じて、はたらくからである。そして、知性認識された概念が何らかの事物に似ているということからは、知性がこのような概念を形成することによって、その事物を知性認識するということが帰結するのである。
――トマス・アクイナス『対異教徒大全』第1巻、第53章
「可知的形象」の直接実在論
「可知的形象」は、われわれの知性が外的世界を現実に認識している根拠である
「可知的形象」は、われわれの意識には決して現われることはない
つまり、意識に現われ、認識対象となる「言葉」を能動的に形成する知性が、現実的な作用者として存立するようにさせているのが、「可知的形象」なのである
→「可知的形象」に関しては、アクイナスは「直接実在論」を採用していると言える
認識の「楽観主義」と「悲観主義」
実在の外的事物が真実として知性によって抽象され、情報が得られるとして良いのはなんでですかって話
これはたぶん反論できない、頭への電気信号をそっくりそのまま再現すればいいだけの話なんで
ついでにデカルトは、内在主義の神をも一旦排除する
欺く神=俺らをだましている神がいるかもしれないので
認識の楽観主義
感覚が、固有の感覚されうるものの類似によって直接的に形相を与えられるのと同じように、知性は、事物の何性〔whatness=本質〕の類似によって形相を与えられる。したがって、何であるかということに関しては、知性は欺かれることはないのであり、感覚が固有の感覚されうるものに関してかれないのと同様である。それに対して、複合ないしは分割することにおいては、知性がそれの何性を知性認識するところの事物に、その何性に随伴しない何かやその何性に対立する何かを知性が帰属する限りにおいて、敷かれることがありうるのである。
――トマス・アクイナス『神学大全』・第1部、第17問、第3項,主文
verbumについては間違うことがありうる
可知的形象については、形相の情報の把握については間違わない
→だから楽観主義と呼ばれる
定義や概念の形成ないしは構成
トマス・アクイナス『自由討論集』第5巻、第5問、第2項第1異論解答
『魂について』第3巻における哲学者アリストテレスによれば、知性のはたらきには、二つのものがある。一方のはたらきは、確かに、「不可分なものの知性認識」と呼ばれ、そのはたらきを通じて、知性は自分自身の内に何らかの非複合的なものの定義ないしは概念を形成する。それに対して、他方のはたらきは、複合と分割をする知性に属するのであり、そのはたらきに即して、知性は命題を形成する。そして、知性のはたらきを通じて構成されるこれらの両方ともが、「心の言葉」と呼ばれており、これらのうちの第一のものが、非複合的な項群を通じて意味表示され、それに対して、第二のものは、文を通じて意味表示されるのである。
非複合的な可知的形象はダイレクトに情報が伝達されているので、間違わない
しかし、「赤さ」とは何かなどと認知して語るようになると、それは言葉verbumの領域になり、言葉の組み合わせによっては命題は間違えうる
定義や何性の可謬性
トマス・アクィナス『対異教徒大全』第3巻、第108 京
「何であるか」ということを把提する知性のはたらきにおいては、このはたらきにおいてもまた複合と分割をする知性のはたらきのうちに何かが混入される限りにおいて、付帯的にしか供は生じない。こうしたことが生じるのは,確かに,何らかの事物の何性を認識することへとわれわれの知性が到達するのは,直ちにではなく,むしろ,〈探求の何らかの順序を伴う〉限りにおいてのことなのである。例えば,われわれははじめに動物〔という概念〕を把捉し,そして対立する種差を通じて分割し,類の一方の種を放棄し,類の他方の種をわれわれは割り当て,種の定義へとわれわれが到達するまでこれを行うというようにである。
何性=whatness=what it is=本質(quidditas)
花があったとして、花の本質を捉えたい
verbumの領域では命題による分析が必要になる(種差による分類) 認識における正当化問題
「心の言葉」の内在主義的正当化
「心の言葉」は,われわれの知性が〈能動的に〉形成し生み出したものである
→「心の言葉」という心的状態に対して,われわれの知性は直接的にアクセスできる
外的世界についての認識は,「心の言葉」を獲得するまでは完遂されない
→したがって,「心の言葉」という心的存在者によって,われわれの信念は知識に格上げされるため,アクィナスは「内在主義」を採用していると言える
「真」の在り処
そしてそれゆえ,何らかの事物に関して感覚が真であるとか,何であるかということを認識することにおいて知性が真であるとかということは,たしかに見いだされる。しかし,そのことは,真を認識するとか真を語っているのではない。また,複合的な音声や非複合的な音声に関しても同様である。したがって,真理は,たしかに,感覚,ないしは,「何であるか」ということを認識する知性においてありうるが,それは,何らかの真なる事物のうちにあるものとしてであって,しかし,認識者のうちで認識されたものとしてではないのであり,この後者を「真」という名称は含意しているのである。なぜならば,知性の完成とは,認識されたものとしての真だからである。そしてそれゆえ,本来的な意味で語れば,真理は,複合と分割をする知性においてはあるのだが,しかし,感覚においても,「何であるか」ということを認識する知性においてもないのである。
――トマス・アクィナス『神学大全』第 1 部, 第 16 問, 第 2 項,主文
「可知的形象」の外在主義的正当化
「何性」(quidditas)は,「単純な何性」と「複合的な何性」とに区分される
外的事物による知性の変容/刻印としての「可知的形象」の生起は,知性自身にはアクセス不可能な出来事である
「何らかの真なる事物のうちにあるものとして」という真理の在り方は,「可知的形象」の生起と重なり合う
可知的形象があるということはそもそも外部の事物があることを意味している
→したがって,「可知的形象」という知性認識の出発点/原理については,アクィナスは「外在主義」を採用していると言える
内在主義は科学=外在主義によって今は旗色が悪いが、一方で外在主義は突き詰めると心の中にある信念を否定することになるので、知識の定義の立て直しからやり直すことになる
ひとつのアプローチとして、知識を情報として捉える見方
シャノンの情報理論など