キリスト教哲学なるものは存在するか
中世哲学=「キリスト教哲学」
信仰に関わる問題に、理性が回答する=信仰と哲学が共にある
古代ギリシャで興った「哲学」は、「宇宙の秩序の探究」である
タレスとかピタゴラスとかデモクリトスとか
しかし、キリスト教の聖職者たちは宇宙の秩序について新たな知識を加えたわけではない
アウグスティヌスはプラトンやプロティノスの哲学がキリスト教と矛盾しないと考えてはいたが、彼が哲学に何かを付け加えたわけではない
→キリスト教哲学などという哲学は存在しない
トマス・アクィナスは神学側であり、「哲学は神学の婢」を支持したのも当然
キリスト教哲学は、キリスト教数学やキリスト教物理学がないのと同様に存在しない
17c のデカルトにおいては理性は自立している
私が明晰利明に理解するものはすべて真である
哲学は数学や物理学とは違い、概念の豊かさが問われる
数学や物理学では概念は定まっているが、哲学ではさまざまな概念が生成発展する
cf. 概念工学?Waranziya.icon
ゆえに、キリスト教数学やキリスト教物理学は存在しないが、キリスト教哲学は存在する
キリスト教に関する概念は豊かに発展するから
アンセルムス「理解するために我信ず」
信仰を出発点とする
信仰に基づいて哲学する
当たり前だが、前提に信仰を置くわけではない
結論に信仰を置く