カタルーニャ地方の政治的背景
概要
スペインとフランスにまたがり地中海に面する地域
スペイン側カタルーニャは現在カタルーニャ自治州で、その中心はバルセローナ
面積はスペイン全体の6.4%、人口は750万人でスペイン全体の16%
1714まではカタルーニャ公国
スペインで唯一、綿工業をリーディング・セクターとする典型的な産業革命が生じた地域で、GDPはスペイン全体の約20%
カタルーニャ語はラテン語から派生したロマンス諸語の一つであり、カタルーニャでは1979年以後、スペインの国家公用語であるカスティーリャ語とともに自治州の公用語
歴史
カタルーニャ公国の消滅
カタルーニャの前身はフランク王国が8世紀末に設置したイスパニア辺境領で、その主要部分がカタルーニャ諸伯領
1479 カタルーニャ・アラゴン連合王国とカスティーリャ王国が連合し、スペイン王国が成立
カタルーニャ公国は独自の法と議会をもつ国家として、同君連合国家スペインの中で存続
スペイン継承戦争(1701〜14)ではカタルーニャは王家だったハブスプルク家を推す大同盟側についた
しかし、ブルボン家を推すカスティーリャ・ブルボン連合に敗戦
その結果、カタルーニャは独自の法体系、議会、政府などを廃止され、国家として消滅した
バルセローナが陥落した1714/9/11にちなみ、9/11が現在カタルーニャのナショナルデー
国民国家の建設
その後カタルーニャでは産業革命が進み、農業地域であるカスティーリャを中心とする他のスペインとの差異が社会経済的に拡大した
19cに隣国フランスにならって、スペインでも中央集権的な国民国家が建設された際、その際に基準とされたのがカスティーリャ
しかし、マドリードからの画一的な中央集権国家の建設にカタルーニャの資本家層も労働者層も不満を募らせた
1873 第一共和制が誕生し、第2代大統領でカタルーニャ人のピ・イ・マルガイが「連邦共和政」を宣言したものの、スペインの一体性を脅かすものとして保守層から反発があり、2年と持たずに第一共和制は崩壊した
王政復古体制は二大全国政党が選挙で政権交代し、カタルーニャの利害はほとんど反映されないシステム
19c末 カタルーニャ主義は多様性を許容するスペイン・ネイションを創ることを諦め、カタルーニャを政治的主体としてのネイションだと位置付けるカタルーニャ・ナショナリズムへ移行
自治政府の成立
第二共和制(1931〜39)でカタルーニャはようやく自治政府を1931に実現
主導権を握ったのはカタルーニャ共和主義左派
自治憲章の草案では「スペイン連邦共和国の中の自治国家」が目指されたが、スペイン政府との交渉の結果、カタルーニャは「スペイン国家の中の自治地域」(≠連邦制)となった
1932に国会で可決
フランコ独裁体制
1936 スペイン内戦勃発
1939 フランコ反乱軍が勝利し、スペインの一体性を至上命題とするフランコ独裁政権はカタルーニャとバスクの自治州を廃止したため、カタルーニャ自治政府は亡命に追い込まれる
「統一スペイン」のフランコ体制は、カタルーニャ・ナショナリズムを「ロホ・セパラティスタ(赤の分離主義者)」と弾圧
カタルーニャ語は学校や教会などで茶止され、カスティーリャ語を義務化
カタルーニャの旗や歌なども禁止
学校では「宗教」や「国民精神の修養」といった教科が重視され、カトリック化・スペイン化が進んだ
1960sは「スペインの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げ、バルセローナやその周辺自治体への移住者が増加した
1970にはカタルーニャ人口の38%が非カタルーニャ人に
急激な人口増加は生活環境の悪化(高速道路建設などの強制的な立ち退きや公害など)が進んだため、住民は環境を守る運動を展開、やがて自治権復活を求める政治運動へ繋がった
カタルーニャのカトリック教会は反体制活動の「舞台」を提供した
カトリック系市民の間でも反体制活動が盛んに
1970sに入るとフランコ体制は衰退
1971には反フランコの統一組織「カタルーニャ会議」を結成
スローガン「自由恩赦、自治憲章」はカタルーニャの幅広い人々を動員させた
自治州政府の復活と新たな自治憲章
1975のフランコ独裁崩壊に伴い、1976にはカタルーニャで自治憲章制定を求めるデモが活発化
1977の総選挙で全国的にはスアレス首相が率いる民主中道連合(UCD)が勝利する他、カタルーニャでは左派系政党が勝利し、票の75%が1932年自治憲章復活を擁護する政党に
カタルーニャの諸政党は政治的な自治を求め結集する
スアレス政権は州政府復活を宣言、タラデーリャスが州首相として帰国した
カタルーニャ州政府の復活は、民主化移行プロセスの中で第二共和国時代の政治機関が認められた唯一の例となる
1978年憲法の制定はスペイン多数派にとって最終到達点と目される
カスティーリャと同一視された「ナシオン」に、カタルーニャやバスクといった「ナシオナリダー」が含まれるという理解
これに対しカタルーニャにとって憲法は、マルチナショナルな国家を目指すための出発点と目される
例外は許さないとした多数派が考え出した解決策がスペイン全土を17の自治州に区分した結果、歴史的に自治への切なる思いがほぼなかったような地域も「自治州」と区分された
カタルーニャ自治憲章は1979に成立
住民投票では88.1%の賛成(ただし投票率は60%に至らず)
新たな自治憲章は1932憲章と比べて権限は広いが、財政面は中央政府からの交付金に頼る体制となった
カタルーニャ自治州政府で1981〜2003までの政権与党は中道右派のカタルーニャ・ナショナリズム政党「集中と統一」(CiU)
国会(下院)でも15〜20ほどの議席を有し、社会労働党と国民党の間でキャスティングボートとなったことを利用し、カタルーニャの自治権を拡大させていった
しかし、2000にPPが国会で絶対過半数を獲得
ユニナショナルな王家観に基づき、カタルーニャの権限やアイデンティティへ批判を展開した
2003 カタルーニャで政権についた左派3党は自治憲章の改定作業を開始
目的はカタルーニャを自己決定権を持つネイションとし、スペインをマルチナショナルな連邦国家に近づけること
新自治憲章は州議会可決ののち国会で修正され可決され、カタルーニャの住民投票を経て2006に成立、施行された
2006 (当時の)野党でラホイ党首率いるPPが、この新自治憲章をスペイン・ネイションの一体性を定めている憲法に反するとして、憲法裁判所へ提訴
新自治憲章に反対する署名活動を全国で展開した
これに対抗して、それまで15%に満たなかった独立主義が増加する最初の契機となった
2010 憲法裁判所は違憲判決を下した
カタルーニャの人々にとっては、民主的なプロセスを経て表明された民意を司法が否定した形と受け止められた
憲法解釈としてはカタルーニャは自己決定権を持つネイションではなく、スペイン・ネイションの単なる一部にとされた
スペインの中にカタルーニャの適切な居場所はもはやなく、独立に向けた外的自決権の行使を模索するしかない、と思う人か急増する重要な契機となった
実際、独立支持は25%前後へ上昇
国民党政権による再中央集権化
2011年末に政権与党となったラホイ国民党は「再中央集権化」を開始
民主化移行の分権化とアイデンティティの多様化の「行き過ぎ」を是正し、本来あるべき一つの強いスペイン」を志向した
カタルーニャ州政府が出資し同地で高視聴率を誇るカタルーニャ語放送局TV3と同州の教育制度を、カタルーニャ・ナショナリズムを再生産する諸悪の根源として強く批判した
カタルーニャでは復古的スペイン・ナショナリズムに基づくスペイン化(カスティーリャ化)として受け止められ、強く反発が広まった
財政赤字に苦しむカタルーニャ州政府への財政的締め付けも
カタルーニャへの一人当たりの税配分額は15自治州中14位(2014年度)
高速道路や国有鉄道などでの極めて低いインフラ投資も常に問題となっていた
ラホイ政権は対話や交渉を行わず、カタルーニャ自治州議会が可決した闘牛禁止法、貧困世帯のためのエネルギー法、原子力由来電力への課税法などを「スペイン・ネイションの一体性」に反するとして憲法裁へ提訴し、次々に違憲判決とした
カタルーニャの内的自決権(自治権)を次々と否定された結果、独立支持が2012年には50%近くにまで上昇
カタルーニャのナショナル・デー(9月11日)には100万人を超える人が独立を要求した
独立主義の裾野も拡大し、独立派政党の支持者にカスティーリャ語を母語とする人も増加した
独立主義は特定のエスニシティに立脚したエスノ・ナショナリズムとは単純には言えず、出自を問わないシビック(市民)的側面もある
独立をめぐる攻防
独立支持の急増を受け、2014年から独立に向けた「プロセス」を開始
州議会は独立の是非を問う住民投票に関する法律を可決した
しかし「スペイン・ネイションの揺るぎない統一」に反するとして、次々に憲法裁から中止命令
同年11/9に行われた非公式の住民投票(賛成票80.7%、投票率37.02%)も違憲とされた
自治政府首相マスは起訴され、2017/3に憲法裁の中止命令への不服従の罪で520万ユーロ(約6億2000万円)の支払命令が下された
独立派は、2015の自治州議会選挙を住民投票的選挙と位置づけている
結果は独立派が絶対過半数(68)を上回る72議席を獲得(ただし、独立派の得票率は47.8%)
州議会は2017/6までに中央政府の合意が得られない場合でも、秋には「一方的」に実施すると表明している
2016/10 住民投票に関する議論を自治州議会で許可した罪で、州議会議長のフルカデイが起訴される
中央政府は全く交渉に応じなかったこともあり、2017/9に分離手続きを定めた移行法が自治州議会で可決
法的拘束力を持つ住民投票が中央政府との合意なしで「一方的」に実施へ
これは中央政府にとっては「違法な」住民投票となるため、住民投票を告知する自治政府のHPを閉鎖する他、自治州政府高官14名を住民投票の準備を進めた罪で逮捕
独立運動を主導してきた市民団体「カタルーニャ国民会議」と「文化オムニウム」は大規模な抗議集会を実施した
2017/10/1 住民投票実施
その際、投票にきた市民にスペイン警察による暴力がふるわれ、負傷者は1066人、319の投票所が閉鎖された
結果は独立賛成派は90%、投票率は43%となった
自治州政府はEUの仲介に期待したものの実現せず
ベルギーやスイスは仲介に動いたものの、中央政府が応じなかった
2017/10/16 中央政府は、カタルーニャ国民会議と文化オムニウムの代表を9月20日の抗議集会を組織したとして騒乱罪で逮捕
中央政府は、独立宣言を行えば憲法に基づき自治権を停止する通告を発出
しかしプッチダモン自治州首相は2017/10/27にカタルーニャ共和国の独立を宣言
同日、中央政府は同州の自治権を停止
プッチダモンらは亡命、副首相らはスペインに留まる
そして国家反逆罪で全閣僚に最高裁への出頭が命じられ、スペインにとどまった閣僚は予防的措置としてマドリードの刑務所に収監
中央政府はカタルーニャ自治州を直轄下においた状態で、2017/12/21に自治州議会選挙を実施
結果は独立派3党が絶対過半数を上回る70議席(投票率は79.1%)
スペイン最高裁はその後に新たなに独立派幹部に逮捕状を出し、2019/4には9名が刑務所に勾留され、7名が亡命した
独立派らは「政治犯(思想犯)」だと抗議したが、スペイン政府や独立反対派は国家反逆罪という「罪を犯した政治家」だと主張した
しかし、スペイン政府・司法の主張は国際社会では受け入れられず
欧州逮捕状が出されたものの、ベルギーやスイス、ドイツは身柄を引き渡さず
国連やアムネスティ・インターナショナルも非難
2018には国民党ラホイ政権からPSOEのサンチェス政権に政権交代
自治権停止は解除されたが、社会労働党もカタルーニャの自決権は認めず
正当性をめぐる議論
バルセロナ大学の政治学者、ジョルディ・ムーニョスは独立をめぐる一連のプロセスについて、スペイン政府の正当性の欠如を批判しつつも、独立派の行動に正当性を与えるわけではないと主張
(以下は奥野, 良知, 2021, カタルーニャ独立問題--それは多様性を認めないスペイン・ナショナリズムの問題 後半(カタルーニャ・スペイン問題の国際化と袋小路の要因): 愛知県立大学外国語学部, 45–76 p.より)
独立支持増加の要因はラホイ国民党(政権)による①新自治憲章の違憲判決によるカタルーニャの自治権後退、②一方的な再中央集権化、③自治州政府との対話拒否、警察の暴力、自治権停止、司法による独立派幹部の投獄といった強権的手段 であると指摘
カタルーニャでの国民党の得票率は低いにもかかわらず、カタルーニャの同意を得ずに強制のみで政治権力を行使するというのは非民主的な統治であり、それゆえにスペイン国家はカタルーニャにおいて決定的に正当性が欠如していた
他方で、そのことが独立派が政権をもつカタルーニャ自治州政府の全ての行動へ自動的に正当性は与えることにはならない
その理由として、まず独立派はカタルーニャ州議会選挙で50%を超える得票を得ていない
2017/10/1の住民投票も、独立賛成は90%であるが投票率は43%(300を超える投票所が閉鎖され、警察による妨害などは考慮されるべきだとしても)
それにもかかわらず出された「カタルーニャ共和国独立宣言」は正当性が不足
それゆえにEUなど国際社会は仲介を躊躇
その上で問題を解決する方法はやはり「住民投票」
調査では7割以上が「カタルーニャ人は国として自分の将来を投票で決める権利を持つ」ことに賛同している
したがって、独立反対派も巻き込み、7割以上の民意で住民投票を実施することが民主的に解決する方法となる
2024年自治会議会選挙
2023/7の総選挙後、サンチェス首相は急進左派やカタルーニャ、バスクなどの地域政党の支持を得て同年11月に政権続投
下院でキャスティングボートを握るカタルーニャ連合への大幅な譲歩を押し通したことは与野党および司法界から反発を受けた
カタルーニャ州の独立運動主導者らを対象とした恩赦法は2024/5に施行された
収監から3年以上を経て9人は出所
ただし、プッチダモンへの逮捕状は取り下げられず、幹部数人は恩赦対象外とされた
2024/5/21の自治州議会選挙では独立派が40年ぶりに過半数割れ(74→59)
カタルーニャ社会党(社会労働党系)が33→42と第一党に
独立派でプッチダモン率いるカタルーリヤ連合は32→35
中央政府との対話路線に転じたカタルーニャ共和主義左派(ERC)は33→20と激減
独立派の支持が低下した背景には、「独立連動疲れ」
選挙は10年間に4回、州政府や議会が機能不全に
公共サービスの供下や旱魃による水不足などが顕在化し、独立派の棄権票が増加していた
カタルーニャ社会党はカタルーニャ共和主義左派とSumar系(中間派)の協力を得たことで、非独立派による政権が発足
しかし、そのために独立派に大きく譲歩しており、その一つが自治州財政
国税局が持つ徴税・租税立法権限を完全に移譲したが、これはバスク州などに歴史的特権として適用されてきた経済協約と類似している
自治州財政制度は「豊かな州」の税収の一部を交付金として「貧しい州」に移転するものであったが、スペインのGDPの約20%を占めるカタルーニャ州が抜けると、システム自体が揺らぐとの批判も