黒部川第三発電所の高熱地帯掘削工事
施工途中に高熱地帯にぶつかり、おびただしい量の犠牲者を出した 仙人台までの建設工事では、仙人谷 - 阿曽原の第一工区、阿曽原 - 志合谷の第二工区、志合谷 - 欅平の第三工区に分けられ、第二・第三工区では比較的順調に工事が進捗したが、第一工区では本坑工事を開始した1937年(昭和12年)頃から、掘り進めるにつれて岩盤温度が上昇し始めた。当初は摂氏65℃程度であったが翌年の7月に100℃を越え、最終的には166℃に達した。坑内の気温が上昇する中、作業員の体に黒部川の冷水をホースでかけたり、坑内を冷却する散水装置を設置するなどして作業を続けたが、熱中症で次々と作業員が倒れた。 1938年(昭和13年)8月23日には、切端でダイナマイトの装填作業が行われていた最中に、地熱でダイナマイトが自然発火する暴発事故が2箇所同時に発生し、装填作業を行っていた作業員のうち8名が死亡、6名が重傷を負った。事故が発生した当時の岩盤温度は摂氏120度に達していて、事態を重く見た富山県警察部から工事中止命令が出されるも、電源開発が国策であることと、日本電力が社運を賭けていたために工事は続行された。岩盤からの熱伝導を防ぐためにダイナマイトにはエボナイトやボール紙、割り竹などを被せて対策が施されたが、暴発事故はその後も相次ぎ、多くの人命が失われた。 冬季休業が許されず、雪崩の危険があるなかも作業を強行していた 黒部峡谷は日本でも有数の雪崩発生地帯であり、越冬作業は不可能と言われてきたが、当時の情勢は冬季の作業休止を許さず、阿曽原谷や志合谷などに作業員が宿泊する飯場が設置された。これらの宿泊施設には当時最新の雪崩防止対策が施されていた。しかし、1938年12月27日午前3時30分頃、志合谷で大規模な泡雪崩が発生し、直撃を受けた飯場(1・2階鉄筋コンクリート、3・4階木造)の木造部分が峡谷の対岸まで600メートル余り吹き飛ばされ、84名の死者(うち、47名は遺体を収容できなかった)を出した。なお、吹き飛ばされた部分が発見されたのは事故から2か月以上経ってからであった。隧道が貫通した後の1940年(昭和15年)1月9日にも阿曽原谷で泡雪崩が宿舎を直撃し、直後に発生した火災などによって死者26名、重軽傷者37名を出した。また水平歩道では資材運搬を行う歩荷の転落事故が日常的に発生している状態であった。 雪崩の犠牲者も含めた全工区の犠牲者は300人余りで、同時期に完成した丹那トンネル工事の犠牲者を大きく上回った。犠牲者は黒部市宇奈月町内山に葬られている。
担当していた土木技師は作業員から相当恨まれたらしい
殺される危険があったので、施工完了後行方をくらましたとか
多くの作業員が犠牲となった工事として、近くの黒四ダムの工事が有名だが、凄惨さはこれの比較にならない 黒四ダムは破水帯から吹き出す地下水が問題だったが、あくまで冷水である 一方黒三のこの工事は100℃超えの環境内での工事。危険さの桁が違う
あまりにも凄惨すぎて、あまり表立って語られることはない
References