鹿ヶ谷事件
鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。近年では、この陰謀が平清盛によってでっち上げられたものだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷の事」と著す学者もいる。 まとめるとnishio.icon
(おそらく西光が後白河法皇に働きかけて)後白河法皇が比叡山勢力のトップ明雲を捕まえて島流しにする。比叡山勢力は途中で明雲を奪って比叡山に逃げ込む 後白河法皇は平家勢力に比叡山延暦寺の攻撃を命じるが、平家勢力のトップ清盛が出てきて反対、後白河法皇が押し切る https://gyazo.com/b6238b13895a96b3f5d419ab96105308
西光の子がそもそも悪いnishio.icon
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後白河上皇・院近臣勢力と高倉天皇・平氏勢力の間を取り持っていた後白河の妻、高倉の母である建春門院が死んで対立が深まった
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院近臣勢力の西光の次男が寺を焼いたが、焼かれた寺が比叡山延暦寺勢力だったので中央に波及して全面衝突、長男を島流しにすることで収拾した
えっ、次男が寺を焼いて長男が島流し?nishio.icon
目代とは
遙任国司が現地に私的に代官として派遣した家人などの代理人のこと
あー、長男が加賀の守に就任したが本人は地方に行きたくないから弟を送って、弟が偉くなった気分で地方の寺を焼いたらバックが強力なやつだった、オトシマエつけるために長男を島流し、ということか
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安元の大火の後、一旦解決したと思ったが後白河が急に話を蒸し返し、比叡山側のトップ明雲を逮捕、島流しにする。島流し過程で比叡山側勢力2000人の軍団が明雲を奪還して比叡山に逃げ込む。アジール出現。後白河は延暦寺そのものの攻撃を平家に命じるが、清盛が出てきて反対する。 アジールあるいはアサイラム(独: Asyl、仏: asile、英: asylum)は、歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον(侵すことのできない、神聖な場所の意)」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。現代の法制度の中で近いものを探せば在外公館の内部など「治外法権(が認められた場所)」のようなものである。アジール - Wikipedia https://gyazo.com/c3549b32c44ac9536182e86ead3fddb3
清盛は一転、西光を捕縛、拷問して自供させてから斬首した。成親も流刑からの崖から突き落として殺害した。
ヒェー、拷問して自白させ即処刑nishio.icon
清盛側は「西光の陰謀だ」と主張してるけど、現代人視点から見てこの自白は証拠にならないよな
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これ最初詳細に引用してたけど背景の説明であって時間の本体ではないnishio.icon
安元2年(1176年)後白河法皇は50歳//6月に妻の建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。 まず母・建春門院の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後白河の間には対立の兆しがあったが、12月5日の除目において後白河近臣の藤原定能・藤原光能が、平知盛らを超えて蔵人頭に任じられた。後白河院政派の躍進に対する巻き返しとして、翌安元3年(1177年)正月の除目では平重盛が左大将、平宗盛が右大将となった。建春門院という仲介者を失ったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。それでも3月14日に後白河院が千僧供養のために平清盛が滞在している福原を訪れて平氏に好意的態度を示し、亀裂は修復されたかに見えた。