規格化論争
「規格化か、個性か」をめぐり、1914年にドイツ工作連盟内部で起きた論争。
ヘルマン・ムテジウス
規格化、標準化を主張
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
芸術家の作家性を主張
このときはヘルマン・ムテジウスが折れている
しかし「芸術と産業の統合」というテーマは、バウハウスへ引き継がれていく
アーツアンドクラフツ運動面白いterang.icon
デザインにおいて、現代にも通じる課題である。
万事に通じることだとは思うけどはるひ.icon
そういう話ではない
ものによって違くない?基素.icon
生産効率が必要なら規格化が必要
もうすこし詳しく書かないと、意味がわからないか suto3.icon
書いてみた。どうかな?
/komoji-od/『権力の空間/空間の権力』.icon pp.167f.
つまり、国家的な支援によって世界市場で売れるような商品を生産しようとしたのである。その商品は優れたデザインでなくてはならなかった。しかしそれは個人の卓越に基づくようなデザインではない。個人の卓越によって達成される製品の唯一性という価値ではなく、大量生産によって達成される製品の価値を求めようとしたのである。「世界の物」(アレント『人間の条件』二三五頁)として「人びとの間にあって、人びとを関係づけ、人びとを結びつける」(同書、二九六頁)ような「耐久性のある物」の価値(worth)とは全く違って、使われる物、役に立つ物、消費される物としての価値(value)である。「有益性(usefulness)という名の手段性(instrumentality)」(同書、二六三頁)が物としての価値になったのである。そしてそれはかけがえのない一つの物ではなく、量産される物である。商品としての物である。商品は量産に相応しい形でなくてはならない。そのために「その形がなによりもまず機械の操作によって決定されるような生産物が設計されるに至っ」(同書、二四二頁)たのである。「機械の作業能力に合わせて対象物を設計するというのは、手段=目的カテゴリーの完全な転倒」(同書、二四三頁)である。ムテジウスは設計するという意味を転倒させようとしたのである。「機械の作業能力に合わせて対象物を設計する」ことは設計しデザインすることが機械の性能に従属することを意味する。手段が目的になってしまったのである。それが「ザッハフォルム」である。「機械がつくる物」である。ムテジウスはその「機械がつくる物」に美学を与えようとしたのである(図3)。
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図3 上:ザッハフォルム(出典: 池田祐子監修・編集『クッションから都市計画まで』 146-147、 150-151、219頁)。ベーレンスのデザインによる電気ポットと扇風機。ベーレンスはタービンから家電まで扱うメーカーAEGの専属デザイナーであった。機械によってつくられる商品の合理性(ザッハフォルム)が当時は最先端のデザインであった。下: AEGの商品のための販促媒体。グラフィック・デザインはバウハウスの重要なカリキュラムのひとつであった(出典: Buddensieg, Industriekultur, S. 259)。