神秘的な客
神秘的な客
あらすじ:キリスト教の路に生きることにしたゾシマさん(ちょっと奇矯な振る舞いをした)。そんな彼に一人の男性が訪ねてくる。話を聞く一方で、(この人はなんかえらい秘密を抱えていそうだ)とうすうす感づく。そうしてある日、男性はゾシマに「私は人を殺しました」と告白するのであった
痴情の縺れで女性を殺してしまったが、誰にも露見していない。別の男が犯人として捕まって既に裁かれている。
今の自分は妻も子もあり、何不自由ない生活をしている。しかしふとした瞬間に罪の意識が出てきて、自殺も考えた。でも「すべてを告白してさばきを受けるべきだ!」という念にかられてしょうがなくなった(証拠ももっている)
そんなときに自分の罪を告白したゾシマの行動が信じられず、話を聞きに来たのであった
しかし、告白をしたあと、世間に言うと決心してもどうしても言えない。男性は何度もゾシマの元を訪れる
そのときは、彼は即座に決心した態度で帰って行った。だが、その後も二週間以上たてつづけに毎晩わたしを訪れ、いつも覚悟を決めながら、やはり踏み切ることができないのだった。
(...)「わたしがこちらへ伺うたびに、あなたはさも『また告白しなかったな?』と言いたげな好奇の目で眺めるんですね。(…)」
(…)「それに、そんな必要があるんでしょうか?」彼は叫んだ。「必要ですかね?だって、誰一人有罪になったわけじゃなし、(…)それでも告白する必要があるでしょうか、必要なんですか?流した血に対してわたしはこれからも一生苦しむ覚悟です、ただ妻や子供たちにショックを与えたくないのですよ。妻子を道連れにするのが、はたして正しいことでしょうか?われわれは間違ってやしませんか?(…)それに、世間の人たちにその真理がわかるでしょうか、その真理を正しく評価し、尊敬してくれるでしょうか?」
『ああ!』わたしはひそかに思った。『こんな瞬間に、まだ世間の尊敬などを考えているのだ!』(…)こういう決意がどれほどの値につくものかを、私はすでに理性だけではなく、生きた心によってさとり、慄然とした。
「私の運命を決めてください!」ふたたび彼は叫んだ。
「行って告白なさい」わたしはささやいた。声がかすれたが、しっかりした口調でささやいたのである。そこでわたしはテーブルの上から福音書のロシア語訳をとり、ヨハネによる福音書の第十二章二十四節を彼に示した。 『よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』
彼は読んだ。「なるほど」と彼は言ったが、苦い笑いをうかべた。(…)
「口で喋るだけだから、あなたは楽ですよね」彼はまたせせら笑ったが、もはやほとんど憎しみに近い笑いだった。わたしはふたたび福音書をとり、別の箇所を開くと、『ヘブル人への手紙』第十章三十一節を示した。彼は読んだ。 彼は読み終えるなり、本を放り出した。全身を震わせてさえいた。
「恐ろしい言葉です」彼は言った。「一言もありません、よく選びましたね」彼は椅子から立った。「じゃ、失礼します」と言った。「たぶんもう伺わないでしょう…天国でお目にかかりましょう。つまり、十四年間、『わたしは生ける神のみ手のうちに落ちていた』わけですね。この十四年間をそう名付けていいわけですね。明日こそその手に、わたしを放してくれるように頼みますよ……」
原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(中)P114~119