短歌全然わからない
わからないcFQ2f7LRuLYP.iconmaichan.iconSummer498.iconseibe.iconイタロー.icon
チョットわかるcman.icon
わからない
短歌の鑑賞態度があまり定まっていないcFQ2f7LRuLYP.icon
何でもかんでも和歌鑑賞のメソッドを応用している節がある
歌の背景情報が分からないcFQ2f7LRuLYP.icon
和歌であれば詞書や注で補足がある
注については先人の研究の賜物
特に現代短歌の場合自分で調べる必要がありそうで、浅く文字を眺める鑑賞となりがち
現代短歌、背景情報を知る必要はあるのだろうか。cman.icon
そう、そもそも一首の鑑賞に背景情報など何もいらないのではないか?という気持ちがあるcFQ2f7LRuLYP.icon
「歌の背景情報」が鑑賞に必須だというバイアスがかかっていそう、自分
cman.icon自身はまったく背景情報を入れずに鑑賞している
けど、あったほうが鑑賞しやすい、みたいな意見もわかるな
和歌は歌人自身が読んでいて、短歌は作中主体の視点から語られる、みたいな違いがありそうな気がする。
気になるcFQ2f7LRuLYP.icon
印象、隋筆(エッセイ)と一人称小説(または私小説)の違いみたいなのがあるんではと思うcman.icon
和歌は隋筆的で、基本的に語り手=作者になる。
「その人がどういう人なのか」というのを前提として読んでいくし、語り手のパーソナリティや生活みたいなものはいちいち説明されない
しかし、確実に実際のその人(作者)が存在している
だから、事前に作者のパーソナリティや生活を知っている方が楽しめる
なるほどcFQ2f7LRuLYP.icon
加えて、和歌の享受者は基本的に同じコミュニティの人々であることが多いので、作者を知っていないと読解が難しい、ということもありそうcFQ2f7LRuLYP.icon
短歌は小説っぽくて、基本的に語り手は作中主体と呼ばれて作者と区別される。
「誰かはわかんないですが、誰かがこういうものを見ました」みたいな印象
“誰か”(=作中主体)がどういう人なのか、というのは、歌から読み取れるものによって構成される
実際に語り手が存在しているとは限らないので、読み取れたことで味わってもよいと思う
言い換えれば想定はあるが正解はない、という印象を受ける
作者や題や着想の元は知ってると解釈の助けにはなるが、読みが狭まるとも言える わからないところをそんなに↑詳細に言語化できるんだから、ガチで分かってない人からは分かってる側の人間に見えるSummer498.icon
わからなさレベルの違いであって、わからないのは同じだと思うcman.icon
わからないところがわからない
わからないところはわかる
状態としては「わからない」
わからない所をわかるためにはある程度わかってる必要があるからわかってるのではSummer498.icon
合う人、合う作品が見つかってないだけってことも考えられるcFQ2f7LRuLYP.icon
cFQ2f7LRuLYP.iconだと塚本邦雄の歌は難しすぎてよくわからないが、折口信夫はわかる
同時代でない変な例えだ
現代短歌だと説明をもらって呑み込めた歌もあった
いつかのLT会で解説があった
きになる。(テキトウに検索したが見つからなかった)cman.icon
これは歌の歌詞の覚え違いだったかもcFQ2f7LRuLYP.icon
チョットわかる
自分で短歌を作っていて、現代歌人の歌集をいくつか読んだことがあるcman.icon
ある程度の言語化とか鑑賞のコツはつかんできている気がする。
作ることについてはなにもわからない
句跨りの効果とか空白の有効な使い道(意味)とかマジで雰囲気でやってる