滄浪の水清まば以て吾が纓を濯う可し
$ 滄浪之水淸兮 可以濯吾纓
$ 滄浪之水濁兮 可以濯吾足
この前段、屈原は、「湘水の流れに身を投じ、魚に呑まれる身となって身を滅ぼすことになろうとも、どうして皓皓とした汚れ無き白が世俗の塵埃を蒙ることに耐えられようか」と漁夫に向かって云う。 言所以致是皓皓之徳者.幾経濯磨亦猶沐浴方新.不能再蒙塵埃以喪清醒之体.生死不足計也.
それに対して、にっかりと笑みを浮かべた漁夫が、枻(舟を漕ぐ道具、かじ。一節に舟の縁をも指す)を鼓し、去りつつ歌ったのがこの歌。 滄浪の水濁れば、以て我が足を濯うべし
屈原と漁夫(隠逸者)の生き方が対比されているという 前者の指向する生き方とは何だろう?cFQ2f7LRuLYP.icon
語釈
青々とした波。
「滄」の字は寒い、青々として広いさま、海などを表す。(新選漢和辞典)
語気を示す助詞。
音調を整えたり、韻文の句末・中間につけて語気を止め、さらにもりあげる役割を果たす。(新撰漢和辞典)
$ 力抜_レ山兮気蓋_レ世、時不_レ利兮騅不_レ逝。(『史記』項羽本紀) 力は山を抜き気は世を蓋う、時利あらず騅ゆかず。
纓(えい)
冠の紐のこと。
沐浴升朝廷也.吾一作我.五臣云、清兪明時、可以修飾冠纓而仕也 濯
洗濯の濯。あらう、すすぐの意。
滄浪の水の流れがきれいな時には冠の紐を洗い、流れが濁っている時は足を洗おうの意。世がよく治まっている時は中央に出て朝廷に仕え、乱世には隠遁していっさい政治にかかわることをやめようと、一つの物事にとどこおることなく、時勢のうつりかわりに順応する態度でいる心構えをいったもの。 なぜこのような意味になるのか?
水が清めば、冠の紐を濯うとは、どういうことか?
『王註楚辞』巻七、滄浪之水淸兮に「喩世昭明」、可以濯吾纓に「沐浴升朝廷也」との注がある。 濁れば、足を濯うとは、どういうことか?
人前に出るときに使うであろう冠を、濁った水で洗ったなら汚くなっちゃうから、そういうときはわざわざ洗わないということだろうかcFQ2f7LRuLYP.icon
『楚辞』自体がかなり古い文献であるため、辞書・注でもこれ以前・同時代の用例を遡れないような気がする わあありがとう!sume.icon
清らかに澄んでいないことを嘆き怒っているだけでは生きては行けない。濁っている時は足を洗う、幸いに水が澄んだら自分の大切なものを洗えばよい。と捉えていました、「濁った水でもやれることを今はすればいい」「良いタイミングがきたときに大切なものを洗えば良い」と漁師さんが言っているのかなとsume.icon
めちゃ高潔な屈原と、その場その場に応じて生きる漁夫の違いなんだろなと思い申したcFQ2f7LRuLYP.icon 漁夫は別にその屈原を否定していないあたりわりと印象が深いcFQ2f7LRuLYP.icon
にっかりと笑みを浮かべたのはどういう気持ちなんだろうyosider.icon
『楚辞』は読んだことがないので読みたくなり申したsume.icon
最近岩波で新訳がでており、これで読み申しており候cFQ2f7LRuLYP.icon
岩波さんだー!ありがとうございまし!sume.icon