源氏見ざる歌よみは遺恨事也
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冬・十三番・枯野
判詞(東洋文庫の『八代集』(1)の解説より引用。p.429)
右方申云、草の原、聞きよからず
右方が、「草の原はききよくない」と批判。
左方申云、右歌古めかし
左方は、「右は古めかしい」という。
判云、左、何に残さん草の原といへる、艶にこそ侍るめれ。
判者が云うには、「左方の「何に残さん草の原」、というのは艶にてございます。
右方人、草の原離申之条、尤うたゝあるにや。紫式部、歌よみの程よりは物書く筆は殊勝なり。その上花の宴の巻は殊に艶なるものなり。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり。 右方の人のいう「草の原」がまずいというのは、問題があるかと。紫式部は歌よりもものを書く筆が素晴らしかった。しかも、花の宴の巻は殊に艶であります。源氏物語を読んでいない歌詠みとは残念なことであります。
cFQ2f7LRuLYP.icon花の宴の巻に、「草の原」を使った和歌があるのです
右、心悪しくは見えざるにや。但常の体なるべし。左歌よろし。勝と申すべし。
故事漢籍だけでなく物語文学をも典拠にした歌語を使用してよい(すべき)という発言である 背景には六条藤家と御子左家の対立もあるのだろうか?cFQ2f7LRuLYP.icon 参考