柿本人麻呂
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柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日[1])は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。 1118年,藤原顕季によって創始された,歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。歌人たちは人麻呂を神格化し,肖像を掲げ和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。 鎌倉時代の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』に、人麿影供(ひとまろえいぐ)のはじまりをめぐる逸話がある。 歌をうまく詠みたいと日ごろから人麻呂を念じていた藤原兼房(かねふさ)の夢のなかに、人麻呂が現れた。それは、直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・烏帽子(えぼし)姿で、左手に紙、右手に筆を持って、なにか考えこんでいる、どうみても「常の人」には見えない姿だった。 https://gyazo.com/da1050b6c1f0f5851633156b3ab9e498
夢から覚めた兼房は、すぐさま絵師を呼んで、夢に見たこの人麻呂の姿を描かせて、毎日拝礼した。そして、そのご利益で、歌がうまくなっていった。この絵像は、兼房臨終に際して、白河院に献上され、宝物として「鳥羽の宝蔵」に納められることとなる。その後、藤原顕季がその絵像を借り出して、写し描かせた。そこに、人麻呂をほめたたえる文章と、『古今和歌集』の「ほのぼのと明石の浦の…」の歌を書き加えてご本尊として崇拝するようになり、人麿影供がはじまった。元永元年(1118)6月16日のことである。 影供とは、崇拝する神仏や人物の像をかかげて、供物をそなえ礼拝する儀式のことである。