最近、偶像崇拝とか我執とかについて「お、これは偶像崇拝だな」とか「お、これは我執だな」と分かるようになってきた
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最近、偶像崇拝とか我執とかについて「お、これは偶像崇拝だな」とか「お、これは我執だな」と分かるようになってきた ただし、これはあくまで「自分が気がつく」だけであって、自身がそれを克服した訳でもないよな、と同時に感じている
事実nyarla.iconは未だに感情に振り回さているし、それを克服できた訳でもない
すべての物事は流れによって生じるものだと「言葉と考え」では理解できているけど、「体得」までは至ってない
この辺りは「逆上がりの理論は理解できたが、実技として逆上がりが出来ない」に近い
nyarla.iconはFediverseでトラブった時に我執に落ち入り自己の感情を神にしてしまった訳だけど、これの克服はなかなか難しい 自分の感情を自分で完全にコントロールする、とか相当の難易度としか言えない
中にはスッと出来る人もどこかには居るんだろうけど、生来の気性が荒いnyarla.iconには難しい
今でもかなりマシになったとは言え、それでも多少の気の荒さは残っている
昔はもっと酷かったけど
偶像崇拝とか我執とか、見え方とか言い方が違うだけで根幹は同じ物事を指しているとnyarla.iconは感じている
故に仏教徒であっても啓典宗教の考え方が参考になるとは思うんだけど、最終的な目標地点は違うんだよなぁ 仏教徒の最終的なゴールが解脱である以上、仏教徒の中に本来「神はいない」はず また啓典宗教の信仰者の最終目標は「神に服しきる」ことなので、彼らの中には「神はいる」 なんだけど、実際の世俗の人間は神の代わりに偶像が座ってる訳で、そこを醜いと思う人は耐え難いんだろうと思う
しかし神に服することへ執着する人間はこちらから見れば自身の信仰という我執に囚われているように見える
本当にこの辺りを克服しているんであれば、ただ神に服するだけで事足りるので、心は揺らがないはず
神に課された義務の中に「涜神との戦い」が入っているイスラームなら「神のための怒り」は理解できる が、それも「神のための」怒りであって、「自分のための」怒りなら偶像崇拝だよね、っていう
同じく仏教徒も我執を克服しているのであれば、他人に対して慈悲を向けるだけで済むので心は揺らがない
この点から完全な悟りに至った覚者は見ようによっては人でなしのようにも映るとnyarla.iconは思う 何が起きても動じず慈悲の心で接するって世俗の人間からしてみれば異様なので、当然浮く
それが聖人として見えるか、異常者として見えるかは周りの見る人次第
ただ実際のところそこまでは行っていない人が大半な訳で、この辺りは本当に克服し難いよなーと思ってる
ここまでの話から「内なる偶像崇拝」とか「感情への我執」の克服は相当に難しいと感じてる
が、なんでもかんでも偶像崇拝とか我執だとか言う人が居たら、その人は克服の難易度を舐めてるとしか言えない
そんなに簡単に克服できるんだったら、宗教者なら誰でも出来てるやろっていう
しかし現実、世の中の坊主とかも生臭坊主な訳で……
あとnyarla.iconの感想として「自分は何をすべきか」は我執では?と感じるところがある 「自分は何をすべきか」に囚われているのって正に我執そのものでしょ、とnyarla.iconとしては感じている
行動の目的が「自分自身のやるべきこと」にある以上、それは「我執」だとしか思えない
逆に「自分は何を成すべきか」はそこから先に言った話なので、我執とはちょっと違うと思う
この場合「自身が辿るべき道は何か?」なので、どこを向いて歩いて行けばいいのかの話になる
つまり「道」の話をしているのであって、「自分」という主体の話はしていない