川崎バス闘争
1977年(昭和52年)4月12日、青い芝の会を全国的に有名にした「川崎バス闘争」を起こした[5]。1976年(昭和51年)12月、神奈川青い芝の会の事務所があった川崎市内の路線バス(川崎市バス・東急バス)で、青い芝の会メンバーの車椅子での単独乗車に対する乗車拒否があった[5]。青い芝の会は、運輸省(現:国土交通省)や東京陸運局(現:東京運輸支局)とたびたび話し合いの場を持ったが、当時のバス車両の仕様もあり、問題解決に至らなかった[6]。
当時のバスは、床の高いツーステップバスで、車椅子用リフトやスロープ板もなく、車椅子利用者は介助者に抱え上げて乗せてもらう必要があり、安全上の理由で介助者同伴でなければ乗車が認められていなかった。介助者がいなければバス運転手が持ち上げて乗せるしかなく、腰を痛める運転手もあった[6]。
この乗車拒否に対し、青い芝の会メンバーの脳性麻痺者60人と支援者の介助者らが全国から川崎駅前に結集、駅前に停車中の路線バス(川崎市バス・東急バス・臨港バス)に乗り込みバスジャックを行った[6]。バス運転席のハンドルを破壊し、車内備え付けのハンマーで窓ガラスを割り、拡声器を出してアジ演説するなどして暴れ、約30台のバスに深夜まで立てこもった[6]。強引にバスに乗り込んだり、介助者がバスに乗せて車椅子の障害者を置き去りにしたり、バスの前に座り込んで運行を止めたり、バス車内で消火液をぶちまけるなどの実力行使に出た[7]。
この事件は、当時のテレビニュースや新聞などマスメディアでも大きく報じられ、暴力を伴う実力行使には大きな批判もあったが、公共交通機関におけるバリアフリーや乗車の問題に一石を投じた。