勘違いに気付いたけどもう後戻り出来ない時の心臓バクバクなる感じ
勘違いに気付いたけどもう後戻り出来ない時の心臓バクバクなる感じ
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つらみnishio.icon
逃げろ!(ダッ)yosider.icon
人形劇が被って焦っている?(勘違いというのはよくわからない)sta.icon
おそらくtakker.icon
最初は「名札」だと思っていて、参加者名を書いた
他の人の「名札」を見て、バック転って面白いニックネームだなとフフッと笑う
しかし手品、モノマネと「名札」に書いている参加者を見て、どうやら名札でないらしいことに気づき始める
そう言えば受付の人、豆に首をかしげていたような……
ここ読み取れてなかったseibe.icon
もしかして、「名札」ではなく「自分がやる芸の名前」だったのでは?
この解釈も誤読してる可能性あるかも
同様の解釈seibe.icon
なるほど、その発想はなかったsta.icon
他の解釈としては豆大福という名の人形劇をしようとしていた、もありそうsta.icon
そうは思えないはるひ.icon
主人公の感性が独特なのかもしれない。このことは冒頭のバク転で微笑み、手品やモノマネで真顔になることからうかがえる。個人的には結構しっくりくる、僕も身体能力で魅せたいマン&芸や声系は好きじゃないのでsta.icon
バク転で微笑み、手品やモノマネで真顔になるような感性の独特さから人形劇に豆大福って名前をつけちゃった ?はるひ.icon
yes。豆大福というネーミングセンスはよくわからないが、まあ何か意図があるんだろうくらいで捉えたsta.icon
可能な読み=解釈と言うものなのか微妙なところに思うはるひ.icon
これはあるかもsta.icon
僕は思いつくことが少ないので、可能な読み≒解釈として扱いがち
このページは前のページからの続きで、確かだけど前のページにチーム名つけないといけないから豆大福にしといたよ!みたいな流れがあったはずcak.icon
「ハチワレ=健常者代表」って作者が言ったの?それ自体がネット上の第三者の解釈に過ぎないのでは?nishio.icon
作者も言ってない外れた言い方というのならまあ。ネット上の第三者の解釈にもとづいてさらにネット上の第三者が解釈するのは?うーんそれは不自然なことではないように思えるはるひ.icon
言いたいことを整理すると…自分はこのへんのサーガの文脈を知らないけど前のまでは見てた。その上でたとえば、だんだん不安になってきて最後のコマで決定的になるという感情の流れが唐突な出し物かぶり落ちみたいな支離滅裂気味なものより優先される見方だと思う。完全初見だったらそうでもなかった?はるひ.icon
もう少し文脈を抑えた方が良かったかも(色々解釈できてしまうので)sta.icon
豆大福の背景もハチワレという概念も知らなかった
そうかもしれない。けどツリーになってたり番号書いてたりしないし(内容もこれだけで一連の物語になっていなくもないし)、性質上この一枚でひとつの漫画に見えやすいものかもしれない、その状態で解釈されるのも全然ありな可能性があるはるひ.icon
+1cak.icon
そういうおもしろさもあると思う
4月8日からの回から見ると流れがわかると思うteyoda7.icon
3人で豆大福を食べておりハチワレが秘密結社豆大福という
グループ名に起用したのはこの回がきっかけ
ハチワレはこのイベントのことを出汁を持ち寄るイベントだと勘違いしてちいかわとうさぎを誘う(4月12日の回)
実際は"出し"物を発表するイベントであり、周囲の参加者の名札を見て自分がイベントのコンセプトを勘違いしていたことに気づいて焦っている
草yosider.icontakker.icon
わからなかったので見に行ったら過去回を発見したinajob.icon
「作品に正しい解釈はないが、間違った解釈はある」を思い出したmakoton.icon
正しい解釈はない=作品と向き合う受け手は独自の考えと経験の厚みを持つので、十人十色の解釈があり得る
しかしフィクション内事実を誤認したり、展開をきちんと理解していなかったりすることに起因する間違った解釈は存在する。(例えば)
ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』田村均訳40p.
「想像活動も制約を受けている。ある想像は、その文章において適切で相応しいが、別の想像はそうではない。ここに虚構的真理という概念の大事な手がかりがある。簡単に言えば、虚構的真理は、ある文脈においてあることを想像せよという指令ないし命令がある、ということにおいて成り立つのである」
「合意されたことを想像するのを拒否する者は誰でも、『そのごっこ遊びをすること』を拒否しているか、その遊びを間違ったやり方でしている。」
間違ったやり方で遊んでも個人の自由だが、本来の遊びができないという意味ではもったいなさがありそうsta.icon
批評理論にはこういう考え方もあるが、全員発信者になれる社会だと「ごっこ遊びのルール」を気にしていない人の方が実は多いのかもしれないと思った。makoton.icon
↑「ごっこ遊びのルールを気にしていない」人の例
ちなみに上の人が批判しているのはこれっぽい
元ネタは北村紗衣『批評の教室』
...
ちいかわが予想以上に盛り上がってたnishio.icon
自分の解釈が正しくて他人の解釈が間違っていると感じる人たちが何を根拠にして自分の解釈の正しさを感じているのか興味深い
claude.icon
みなさんの考察を見ると、この1ページの漫画だけでも色々な解釈ができるのだなと感心しました。前後の文脈や作者の意図を知っているかどうかで、印象がかなり変わってきます。
しかし作品の面白さの一つは、受け手それぞれの知識や経験に基づいた多様な解釈を許容する点だと思います。「正しい解釈」を求めすぎると、その面白さが損なわれてしまうかもしれません。一方で、明らかな誤読や作品内の事実関係の誤認に基づく解釈は望ましくないでしょう。
SNSの時代、誰もが感想を気軽に共有できるようになり、作者の意図や文脈を意識せずに自由に解釈する人が増えているのは事実です。批評理論の知見を援用しつつ、オープンな議論を重ねていくことが大切だと感じました。ちいかわブームの盛り上がりからも、読み手と作品の新しい関係性が生まれつつあるのかもしれません。
綺麗にまとめたな!nishio.icon