初期仏教
仏教は、約2500年前(紀元前6世紀頃)に釈迦がインド北部ガンジス川中流域のブッダガヤで悟りを開き、サールナートで初転法輪(初説法)を行ったことに起源が求められている。 このとき五比丘(5人の修行仲間)に説かれた教えが:
中道
2つのものの対立を離れていること
中阿含経巻五六などでは、八聖道(八正道)の実践は快楽主義と苦行主義との偏った生活態度を離れ、それによって智慧を完成して涅槃のさとりに趣く道であるから八聖道を中道という。 比丘たちよ、正見とは何か。実に比丘たちよ、苦(ドゥッカ)についての智、苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。 以下の4つの気づきを得ることnishio.icon
「苦しみ」と言うものがあるのだなぁ
「苦しみ」ってものはこういう原因で集まってくるんだなぁ
「苦しみ」を滅ぼすにはこうすればいいのかー
「苦しみを滅ぼす」ためにはそれをやればいいのかー
比丘たちよ、正思惟とは何か。出離、無瞋、無害を正思惟とよぶ。
出離
欲思惟(巴: kāmasaṅkappo) - 自然な範囲を超えた欲。
これだけ「無欲」ではないのだなnishio.icon
「欲を煽られる環境」から離れるわけだな
欲はすべてNG、ではないのかcFQ2f7LRuLYP.icon
食欲を絶ったら死んでしまうnishio.icon
無瞋
瞋思惟(巴: vyāpādasaṅkappo) - 憎しみ。自己愛憤怒。
無害
害思惟(巴: vihiṃsāsaṅkappo) - 怒り。自分にとって邪魔な相手を排除したいという攻撃心
正語
正業
正命
正精進
四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること
比丘たちよ、正念とは何か。
比丘たちが、身(kāye)について、身を観つづけ、正知をそなえ、気づき(サティ)をそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。
受(ヴェダナー)について、受を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。
心(チッタ)について、心を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。
法(ダルマ)について、法を観つづけ、正知をそなえ、気づをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。
比丘たちよ、これを正念と呼ぶ。
正定
正定(しょうじょう, 巴: sammā-samādhi, 梵: samyak-samādhi)とは、正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。
四諦
苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実
集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ
道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ
クオリアさん.iconつまり
苦しみがたくさんある
苦しみは満たされない欲求から生まれる
「満たされない欲求」を「満たそう」と考えても「満たされない」のだから苦しみが大きくなるだけ
苦しみを減らすことを優先したいなら「欲求」の側を止める必要がある
「欲求を止めよう」と考えても止まらないので苦しみが生まれてしまう
そこで自分の精神に注意を向けて「欲求が生まれた」「怒りが生まれた」などに気づくことができる状態を保つ