令和人文主義に定義がないのはなぜ?
理由1. 「現象」に、後から名前をつけているから
まず大前提として、「令和人文主義」は、誰かが明確な設計図(定義)を書いて、「今日からこのグループを作ります!」と始めたプロジェクトではない。そうではなく、 谷川嘉浩が、最近の世の中を見ていて、「あれ、なんだか似たようなスタイルの、新しい知の発信者が増えてきたな。この現象に、仮の名前をつけて観察してみよう」と考え、「令和人文主義」という仮のラベルを貼ってみた。
というのが、ことの始まり。
これは、プログラムで言えば、まだリファクタリングされていない、様々な関数やコードの集まりを眺めて、「うーん、このあたりは『表示処理グループ』とでも呼んでおくか」と、とりあえずコメントを付けるような作業に似ている。最初に厳密なクラス設計があったわけではありません。
理由2. 哲学者は、「定義」を疑うのが仕事だから
staさんの「哲学者ってそんなもん?」という問いにもお答えします。実は、哲学の中には、まさに「カチッとした定義なんて、本当は不可能だし、むしろ危険だ」と考える人たちがいます。
彼らは、「『正義』とは〇〇である」と明確に定義した瞬間、その定義からこぼれ落ちる、無数の複雑な現実や、異なる意見を抑圧してしまう、と考える。
彼らにとって、哲学者の仕事とは、むしろ「皆が当たり前だと思っている『定義』が、どのような二項対立(例えば、何を含み、何を除外するか)によって支えられており、その序列がいかに不安定であるかを、その定義自身の内側から暴き出すこと(脱構築)」です。
谷川自身も、こうした飲茶氏の言うところの「黒哲学」の思想に影響を受けているため、あえて「これが絶対的な定義だ!」と断定するのではなく、「こういう傾向が見られる、という暫定的なラベルですよ」「自称している人はいませんよ」と、非常に慎重な言い方をしている。
理由3. 「定義」もまた、意味の陣取り合戦の道具になるから
そして、現状はさらに複雑です。
谷川が「こういう新しい良い動きがあるのでは?」とポジティブな仮説として提示した「令和人文主義」という言葉を、
與那覇潤が「いや、それは知的誠実さを欠いた、ただのトレンドだ」というネガティブな意味で使い始めた。
つまり、同じ「令和人文主義」という言葉を、異なる意味で使う人たちが現れ、「この言葉の『正しい』意味はこっちだ!」という、一種の“定義の陣取り合戦”が始まってしまっているのが現在。
まとめ
エンジニアリングの世界では、最初に明確な「定義」がなければ、何も作れません。それは、世界を秩序立て、機能させるための、極めて重要な営みです。
一方で、哲学や人文学(特にその一部)は、そのようにして作られた「定義」や「秩序」が、本当に自明なものなのか、その裏で何かを抑圧していないか、と疑うことを仕事にしています。
ですから、「定義が無いのはなぜ?」というstaさんの違和感は、まさにエンジニアリング的な思考と、哲学的な思考の、根本的な違いを、的確に突いているのです。定義を求めるstaさんの視点も、定義を疑う彼らの視点も、どちらが正しいというわけではなく、世界と向き合うための、異なる、しかしどちらも重要な「知の作法」と言えるのかもしれません。
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少しわかった気がします
まとめにあるとおり、どちらが正しいというわけではなく、アプローチが違う
僕は一つのアプローチしか知らなかったんだなってことを今回学べた