他者を要請する私
みたいな話。タイトル定まらないので仮terang.icon
from 2025/02/28
近代以降のセルフとは、他者の存在自体あるいは他者からのストロークによって自己の規定を試みては修正を繰り返す不断のプロセス
反復され続ける反省というとギデンズっぽくなるんだろうか。再帰的近代。
そのような自己へのハックテクノロジーを統治手段だといえば、ミシェル・フーコー-ニコラス・ローズラインとも接続か。
何のメディアを選んだのか、そのメディアのアーキテクト(他者)の設計思想にユーザーが乗っかることが、すなわちメッセージであるとマクルーハン。Cosenseに何かを書くという時点で、何を書こうがメッセージになっている。マクルーハンは電球もメディアだと言っていたけども。
今やどこにでもあるメディアを通じた反省の反復によって、私(I)が私であると了解しては修正されているような振る舞いに見せかけられれば、それは「まるで他者のよう」となるのだろうな。他者の助け(=help=helpful=有用)ともなるのだろう。そこに敬意し合うことが生まれると思う。
道具には感謝はすれど敬意は抱かないなと思う。ただ道具にもその道具の作者 author がおり、作家性 authority(権威) は帯びている。
いずれにせよ私は他者を必要とし、他者によって私が決まるということ。私が私として仮に決まることが、同時に他者の助けにもなれるということ。
私とは何者か?価値は?信念は?選好は?その仮回答のために他者との間で通じ合えると思える最適な記号を探し続ける行為と、その行為そのものを隠さず他者へ示すことで、意味が通じ合い了解し合うというある種の奇跡のような現象がそこに起こるのだと思われる。それが合意形成(コンセンサス)という瞬間に他ならない。あるいは対話(dialogue)は相互理解のために行われる(それは議論 disucussion とは違って)と言われるゆえん。