2026-04-04 /07 ntjEchpk
スマホからの書き込みが多い
あとからかきなおす
「光る言葉リンク」が他のページに繋がらない赤リンクになってしまっていることが少し気になっていて、従来の光る言葉リンクの運用を+αしたような代案をちょうど持っていたのでどう話を切り出したものか
数年前のページに大量の赤リンクを発見した時の気持ち
一見して使えそうなフレーズでありながら、現在に至るまで一度も再利用されていない
どのページにも繋がっていない、トピック指向なのに同じテーマの他のページとの接続がされていない、孤立したページと化してしまっていたりする
ページ数の少ない頃だとページの内容を把握しているので余計にリンクの価値を意識しづらいのかもしれない
迂闊だった
この文をそのままにしておくべきではなかった
この意図としては同じことを実現する手段を増やしたいのであって、作るべきではないとまで主張したいわけではない
なおまだ詳細に検討していない
このアプローチは、素直に小さい区切りでリンクすればページごと埋もれずに済むのに…という意味です
光る言葉リンクとは共存させられる
ただし下手をすると「大きなリンク」問題が発生するのでその辺りは運用でカバーしてね(はぁと)……といったところです 大きすぎる2hop linksの問題も発生すると思うcaki.icon
なんだか私の案とはまだ微妙に遠いところに焦点のある議論がはじまってしまっている
今のところはただ生暖かい目で成り行きを見守っておこう(既視感のあるめんどくさい話の流れにみえるので)
自戒(※社会性フィルターを通した言及)
似たようなやらかしの経験が何度もある
こうして定期的に変な議論が引き起こされる場所だという事実が(主に一部の人にとって)かえって心理的安全性につながっているのではないか
つまりおかしなやらかしを定期的にやらかしがちな変な人がいつも安定して数人はいること
三行目にして社会性フィルターを喪失している
(ふわっとした基準で)「誰々と誰々が揉めている」と誰かに認識された時点で杜撰な形で話の腰が折られて全然別の場所に回収されない場所というのはあまりない
一部の人にとっての中には自分も含まれる
+1caki.icon
伝え方や人の気持ちへの配慮に関しては、自分は人のことをとやかく言えたものでは全くない
なんなら自分の感情すら尊重できているとはいえない
やはりUserCSSでインライン引用記法のスタイルを変えたらかなり読みやすくなったような気がする 括弧「」で十分な場合にも引用記法を使う行為が要らぬ反感を呼んでいるのではないかと思ったが、見てくれの(つまり視覚的な印象の)問題なのかもしれない
辞書や辞典とはすでに広く使われていたものをまとめ直したものだが、一度定義付けの体を成してしまうと、その「定義」に沿わないものを「誤用」だとか「無効」だといって排除しようとするような向きが出てきてしまう 言い回しが攻撃的に見えるのであとで表現を調整する
困った。作文は昔から苦手なんだ…
唐突に物事の順接が逆転させられているように見える
創造の過程が否定されている
どういう心理なのかが気になる。行動そのものよりも人間の方に理由があると思う
参照可能性が無くなるのを嫌っているSummer498.icon
なるほどntjEchpk.icon
自分ntjEchpk.iconが話の脈絡として先に定義が必要だと認識しているケースとそうでないケースとをどのように区別しているのか という主観的な基準について考察してみようと思う
厳格な定義付けの必要性について
なぜときどき(人と人が)話が噛み合いづらいようにみえるのか、自分のその違和感を特定したい
何らかのコミュニケーションスタイルの違いがあるが、その差異の正体が何なのかを掴めていない
ちなみにこの木はよく観測する現象について前々から引っかかりを覚えていたというだけであって、個別の事案に対するものではないです
ちなみに想起したきっかけとしてはきのう2026-04-06のMijikko.iconとSummer498.iconとのやり取りがあったものの、特に(個別具体的な事案または特定個人に対する)批判的意図があって書いたわけではないです
原典を求める姿勢にときどき(毎回ではなく)強めの反感を覚えることがあるが、その反感が正当なものであるかどうかは場合による
まず現象を特定しないと言葉にして説明することもできない
スギ花粉が沈静化しつつあるのに花粉症の症状が収まらない
ので
これは終えてから書くか
これも事後報告のほうがいいな
行為(発話含む)の文脈や他者の意図を読み取る能力の乏しい人にありがちな傾向をまとめて対策を立てていきたい
この能力が高ければ主体的に出方を選択することができるだろう
読み取った上で見ぬふりをしたり(誰かしらの)直感に反する出方をする人のことではない 場の空気を読み取ることと場の空気に沿った行動をするかどうかを混同して、後者を「空気読める」「空気読めない」と言い換える現象に似ている
「形質Aの人はよく行為Bをする(・できる)」を仮に真としても、「BをしているからAの人だ」とはならない
これを取り違える人が割といる
これを取り違える人が割といるため、相手がこれを取り違えているのではないかという警戒心が生じる。不毛である
(あたかも自明であるかのように)結果と何らかの「原因」(と思しきもの)に自動的に因果関係や対応関係を見出すことは、観測された事実を総合する能力(ある種の想像力)の低さを示唆する ある行動が常に同じ効果を与える、または常に同じ意図があると認識するのも同形
そもそも現在から過去を逆算するのは容易なことではない
主観と客観の分離
印象操作、レッテル貼り、何様によるジャッジメント
なぜ外界の現実の方を自分の脳内で作り上げられた(ご都合主義的な)観念的枠組みに還元しなければならない人がいるのか
検証を全て終えるよりも結論を急ぐ・あらかじめ頭に浮かんだ結論の方に飛びつく傾向
内的な思索に注意資源を割くと外界への注意や(頭ではなく)心と身体で感じる、観察する方がおざなりになりやすい
人は一般に根詰めると苛々する
検討材料が不足している状況にもかかわらず、ありえないほどに考えすぎる、思い詰める、思考の空回りをよくする傾向(理路整然と考えるタイプの逆)
ユング自身のタイプ論は、基本的には四体液質と同レベルの気質記述モデルに過ぎない
彼は臨床医としての長年の経験と観察から、人間に普遍的に見られる形質的特徴を簡潔で体系的な類型論にまとめた。そして彼自身が提案する類型モデルにおけるタイプの同定手法もあくまで同様の観察に基づいている
名前を借りただけのレゴブロックで遊びたい子供がMBTIもどきという名の自己啓発本的カルトにハマるもの
自己啓発本は十数冊くらい試しに読み漁ったことがあるが、私が独自に行き着かなかったことが見事にただの一つもどこにも書かれていなかったので、こんな程度のものなのかとすんなり納得して探索を終えることができた
これはあくまでその時に読んだ範囲の本の話
あんなものは有難がられる価値などないと思える
まあ、平均的に人は創造性など持ち合わせておらず、誰かからの受け売りか刷り込みで精神が構成されているような芯のない存在なのでしょうがない。しょうもない
そういうことにしておかないと諦めがつかない
各人の頭に脳が備わっているのはなぜなのだろう。その頭脳は一体何のためにあると思っているのだろうか
考えるための器官を備えているのだから、自分で自分のためにものを考えてほしい
いっそ私が自己啓発本を書いてみてもいいかもしれない
車輪の再発明にしかならないし、生きているうちに自然にたどり着いていたことなのであまり価値を置いていないし、モチベーションがない
観察をおざなりにしたり根詰めすぎないようにするには、日頃から呼吸法と瞑想をやっておくのが有効だろう この呼吸法というのは、自分の呼吸にあえて注意を向ける、連続的に意識し続けるというもの。現在の注意を外界と自分の身体に向け続ける方法として有効
ADHDならたぶん(不快感という形で)皆心当たりがある
モノフォーカスになる傾向があるため
私のいう「瞑想」というのは、調べてみるとどうやら瞑想のちょうど逆の状態になることを指していたらしい
静かでリラックスできる場所で、完全にモノにした作業(頭脳タスクも含む)を無心で精確に、集中的に何時間でも行い続けられるゾーンに入ること、その状態で浮かぶアイデアの思索に励んで心身統一すること
私が「瞑想」状態と捉えていた行為によって実際に行っていたこと
デフォルトモードネットワークを活性化させる
呼吸法と合わせて心身統一を行う
一般的な「瞑想」
デフォルトモードネットワークを抑制する
何も考えが浮かんでこないようにすることを瞑想と呼ぶらしい??
マインドフルネス的な手法によって精神の揺らぎを抑制し、平常時の状態と「瞑想」状態を近づけるという意味では、実現の過程が裏返しになっているだけで理論的には同じものなのかもしれないという予感がある
まず一般的な意味での瞑想なるものが私の理解と対応関係が大きく異なっているので詳しく調べないといけない
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