芸術の記号化・貨幣化
しかし、芸術作品は、暗黙のうちに、大前提として完全体とみなされる。それは何も、完全な秩序だった完全性を意味することや、構造があることを意味するのではなく、外部の関与なく、それ自体として周囲から切り離せることを意味する。こうして、作品の対象の関与なく、それ自体として周囲から切り離せることを意味する。こうして、作品の対象化が自明なものと担保されるとき、作品は記号と見なされることになる。絵画は、作家の意図を剥奪され、単なる物体となったとき、「意味のない物体」となる。それは対象化された以上、いかようにも、自由に意味を与えられる記号とみなされることになる。 このように考えるなら、椹木野衣の言うように、芸術作品は、貨幣に酷似している。とりわけ貨幣を考えるなら、物質的価値はほとんど何もない単なる紙切れが、基本的には、ただ流通することで価値を持つことになる過程は、見かけ上、芸術作品の価値形成過程に酷似する。 意味のない物体ではあるが、対象化できるからこそ、それ自体と独立に価値を与えることができる。では、自由に、恣意的に与えられるその価値に、どうやって客観性を担保したらいいか。マーケットに委ね、マーケットの中で決定すればいい、という価値基準が現れるのは、記号である以上許されることになる。いかに貨幣価値に還元できない、「質的価値こそが芸術作品には担われる」と言っても、作品を「完全体」とみなし、記号化可能と前提する限り、価値は恣意的で自由なものとなる。
ましてや貨幣経済の中に生きる我々になって、貨幣価値を持たないものを生産することは、生きる糧を失うことを意味する。このような社会にあって、作家が生きるためには、作品が価値を持ち、作品が売れること以外に道はないように思える。そういった社会制度を暗黙のうちに前提するとき、作品の貨幣化はますます正当性を得ることになる。
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作品が「完全体」と見なされることで、記号化/貨幣化する
同時にそれは「外部」(可能性すら想定不可能なもの)への開きを失わせる
(ペギオ氏はむしろ芸術は外部へ開かれた「穴」を持つ「完全な不完全体」だと主張する)
たしかニーチェは、芸術は生を増大させるもの、と述べていたが、ここではむしろ逆に、社会生活の中に「貨幣的なもの」としての芸術が取り込まれる 芸術の本質はあくまで、それが生存を完成せしめ、それが完全性と充実を産みだすことにある。芸術は本質的に、生存の肯定、祝福、神化である――『権力への意志』下巻、821