総合格闘技的に言語に取り組みたい
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総合格闘技的に言語に取り組みたい
と思い始めた
あるいは、以前からぼんやりと思っていたかもしれない
現代の小説が好きで文学文学科に進み、日本語日本文学研究室に所属し、日本文学を専攻して、太宰治の卒論を書いたが、文学研究ってあんまりおもしろくないなと思っていた
大学卒業後の10年間は、どちらかといえば日本語の面白さについて考えていたような気がする
現代思想にも少し触れて、言葉の取り扱い方に関する態度に変化が見られてきた
『悪い言語哲学入門』などから、言語哲学に対する興味も生えてきた
小説にはもともと興味はあって、他の文芸形態にも興味があるし、メタ小説的なものというか、テキスト / テクスト 全般への興味があるかもしれない
何かの専門を究めていくのではなくて、中途半端に、アマチュアとして、言葉に対する知識や経験を乱雑に獲得していくこと
「小説を書くのは上手くないから作家にはなれないし、旧帝大にも進めなかった僕が大学院とか行っても仕方がないし」、と思って、それ以外の道を探ってきた10年だったと思うが、結局何かが形になったかというと、そうでも無い気がする
それはそれとして、次の10年では、言語に対して総合格闘技的に取り組みたい、というのがぼんやりと見えてきた目標かもしれない
蓼食う本の虫としての実践
これは「学際的」みたいに言えるのかもしれないが、研究者ではないので、そういう言葉を使うのは違うよなという気持ちがある
言語的分業という概念が強く心に残っていて、俺は俺の分野で言語的な業をやっていくんや、という気持ちになってきている 伊藤博文のことをよく知らない人が伊藤博文という語を使うとき、自分はその人物を特定する確定記述を取り出せないけれども、誰かもっと詳しい人が確定記述を取り出せると考えて、それを当てにしてその語を使うと言えるかもしれません。そういうことは一般名の場合にもふつうにあって、私なんか「ニレ」と「ブナ」の区別もつかないのに「白神山地にはブナの原生林が広がってるんだよね」とか言ったりします。分かる人には分かるならそれでいいんだという感じです。後にヒラリー・パトナムがこのように社会全体で言語の意味理解を担っていることを「言語的分業」と言いましたが、「伊藤博文」のような名前に関しても社会における言語的分業が成り立っていると考えられるのです。(野矢茂樹『言語哲学がはじまる』p.148)