社会的コンセンサスと個人的日常的コンセンサス
terang.icon
(最近、気合い入れて論文書き切ったせいでこれはたぶん今だけのポジショントーク気味のことかもだけど)社会的なコンセンサスというのは、何万文字以上かの文書の交換による論争を通じて緩やかに決まるべきだよなあ、とややもすると当たり前なことを思うなど。
ミニパブリックスのような熟慮が促されるアーキテクチャが予めデザインされた時空間は、じゃあ社会的コンセンサスに相応しいかというと例外ではあるもののここでは一旦保留。
口角泡を飛ばしての話し合いは個人的なコンセンサスあるいは日常のコンセンサスとして必要だとも思う。この個人的日常的コンセンサスと社会的コンセンサスとは混乱してはまずいが、間接的には両者は接続していると思われる。
例えば、「今日晩ご飯何にしよっか」と親密圏での何気ない呟き。ここから始まるいくつかの会話を通じて、「なんとなく気持ちよく相手と合意できたな」と両者共が感じる状況と、そうでない状況。ここに個人的あるいは日常的なコンセンサスが潜む。
コンセンサストレーニングとも呼称される古臭いHuman Relations Trainingがあるが、あれも、何も社会的なコンセンサスの訓練のためではなくて日常的な誰かとの会話の中でのちょっとした合意を互いに気持ちよく行えるようにするためのものであった。 あのトレーニングを二, 三受けたところで、「この地域で核廃棄物を受け入れるか?」のコンセンサスは困難なんじゃないかな。どこまで行っても対立することはある。でもその上でなんらかを決定をしないと(そして対立の反対側にいた人も正統な決定には従わないと)集団は平和に前へ進めない。
手続きの正しさで決定とするか、決定後に異議申し立てが開かれている状況とするかは、自由主義と共和主義の狭間としてまた別に議論は必要だろうけども。
ただ、もしかするとコンセンサストレーニングによる個人的日常的なコンセンサスの積み重なりによって、社会的なコンセンサスが浮かびあがろうとするときに民主的な態度をとることができるかもしれない。
デモクラシーが認識的な正しさのためのものか、デモクラシーそれ自体を価値とするかの議論にも踏み込みそうな話になってきちゃったな。
それはともかくとしても、やれ社会的コンセンサスは文章でだとか、個人的日常的コンセンサスによる啓蒙があるだとかと書いたこの内容は、知性主義的だとの批判は受けそうではある。なんらか応答もできそうだけどそれはまた書きたくなったらで。
べべベーっと書いて思ったが、pubilic consensusとprivate consensusみたいなネーミングでもよかったかもしれない。まあ名付け方は今はどうでもいいか。
Summer498.icon
合意形成に必要なのはデータの網羅性と論理の健全性であって、文字数はKPIにはならないだろう
と1行目から疑問を呈する
ただ、データの網羅性と論理の健全性を担保しようとした結果、文書が数万字に及ぶことはザラにあるだろう
では、データの網羅性が担保できない場合はどうするか
それなりのデータと論理の健全性を武器に複数の主張がぶつかり合うことで、より頑健な主張に昇華される
まさにそんな感じですterang.icon