社会構成主義は、相対主義の批判にどう応えているか
が書かれている箇所
via. 『あなたへの社会構成主義』 p.342f.
ここで、万人に受け入れられる善を確立できないという社会構成主義の「失敗」が、道徳的・政治的な価値の問題に新たな地平を切り開くことになります。はじめに、道徳的価値について考えてみましょう。私たちはふだん、「私たちの」(これからも続いていく可能性のある)行為パターンを、他者との共同作業で作り出しています。これは、母親と赤ちゃん、一緒にキャンプしている仲間、電車で乗り合わせた他人同士、あるいは人間と犬にもあてはまります。こうした望ましいパターンを確立するのに、道徳的な言説は必ずしも必要ではありません。行為が完全に調和した状態であれば、善悪を宣言する必要はほとんどないでしょう。ところが、誰かの行為を正すことが必要となった時(例えば、「それは間違ったことだから、二度としてはいけないよ!」)、道徳的な言説が登場します。あるいは、ある生活形式が脅威にさらされた場合、伝統に従うことを推奨し、逸脱を罰することが必要になってきます。私たちは、ルール、法律、 原理、権利宣言など、「善」についての言説があるから「よい行いをする」のではありません。道徳的な言説は、ある生活形式を作り上げるかもしれません。しかし、道徳的な言説が伝統を生み出したり、それだけである伝統を支持したりするということはないのです。
(中略)
社会構成主義は、それぞれの立場が自らの伝統の中に価値を見出そうとすることの正当性を十分わかっています。社会構成主義もまた、さまざまな伝統を有しています。社会構成主義は、独自の価値をもつことに対して異議を唱えるつもりはありません。ただしその一方で、自らの価値への深い傾倒が、他者を排除し、自分たちに反対する声を締め出してしまうことにつながりかねないという認識ももっています。こうした排除のプロセスの行きつく先は、独善的な声——唯一絶対の言葉——です。独善的な声の存在は、対話や交渉の終わり——あるいは意味そのものの終わり——を意味します。すなわち、激しい対立の中で、あらゆる価値、道徳、政治学は終わりを迎えることになるのです。
相対主義
from 2026/03/11