病理を考えデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に回帰する
from 2026/04/30
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汚言症の発話って事実確認的でも行為遂行的でもない発話だと気付いた。
何らかの意味を見出だせない、
文字通りの意味も、それによって何かを成し得ようとする目的も無い。
症状が出ている人からすると何らかの意味を見出されれば困る発話。
えげつない単語が出るので何らかの意味を持っていると思われたら本当に困るやつ。
言語ってそれほど信用できない。
非言語も信用できなくて、チック症の不随意運動で恋人の骨を折った人も居る。
腕を渾身の力で叩きつける不随意運動が出た時に振り下ろされた先に他人の腕があったら骨が折れる。
害意はもちろん無い。
更に自分に対して自分が考える内言すら信用に値しないこともある。
妄想症というものがある。
妄想として明らかに誤った信念を抱き、全く疑うこともないということが有り得る。
明らかに誤った信念を持ちつつ、それを疑いつつも持っている状態は別の語で呼ばれる。何だったかな。
哲学は病的な例を内包しない方向性なのだろうか。それとも気付いていないだけなのだろうか。
哲学的な考えに病理的な例を出すのは哲学的な批判に値するか、それとも、そういった物は例外として扱われるべきものか。