普通ってなんだろう?に応えるには?
普通ってなんだろう?に応えられるようになるというのが、自分の将来の望ましい状態だと思った久住哲.icon その際、「普通とは◯◯です」という答え方はしないだろう
そのためにはどうしてもある種の「存在論」を避けては通れない
が、この「存在論」を押しつけることは避けたい。
例えば、「普通は人によって変わる」という言葉を評価するにあたり、認知主義的に行くと、「あなたがそれを知らないだけだ」という非難は妥当になりうる。しかし、文化によって普通は変わる……みたいなことはまちがいなく事実だ。 ピダハンは写真を見てもその見方が分からない(二次元的な像に不慣れすぎる?)みたいなエピソードが傍証になりうる 『言葉はいかに人を欺くか』の後半、「公共の水路を汚染することが間違っているとは知りませんでした」という言い訳が出てくる箇所(148頁あたり)に「正常な道徳的文脈」と「異常な道徳的文脈」という言葉が出てくる。気になる 正常な文脈では、道徳的な無知とは「道徳〔を共有する〕共同体が一般的に知っていることを知らないことである。
たぶん、「共同体が一般的に知っていること」ってのが、「普通」に当たる
でも、「共同体が(...)知っている」ってどういうこと?って思っちゃう自分がいる
ムアがやってきて批判してくれそう🤔terang.icon これに対しても自分は一定評価する立場を取りたい(が、どう評価するかは自信満々では言えない)方なので、たぶん井戸端では思想的に浮きそう
自分の問題意識は、「普通」や「世間」を〈政治的に無力なもの〉としていくことが、それ自体はニュートラルな態度だとしても、結果的に共同体が極左や極右(曖昧表現)につけこまれる隙を与えることになる……といったもの
「普通」という語彙はレイシストっぽい人も多用するが、反レイシズム側の言説があまりに相対主義的になっていくと、「良い意味での普通」は無力化され、それを極右に利用される。一方、相対主義的な風潮は極左も歓迎しそうではある。愚行権などを持ち出してきて これは勉強のモチベーションになる。