投げてくれた他山の石―2026/05/25
from 2026/05/25
Summer498.icon
「井戸端」に自分の身体のようなアイデンティティを感じすぎてる人について考えている
これを A とした時に「A が V している」という主張に自分を代入して「Summer498.iconは V している」という主張は理解できるし、確かにとも思うのだが、
A = 「井戸端」に自分の身体のようなアイデンティティを感じすぎてる人 $ \supset Summer498.icon というのに引っかかりがある。
a (e.g.Summer498.icon)が別の行動原理 B, C, D で行動している時に、 a が A を原理に行動しているように見えることがある
A として言及された際に、「A とは自分のことを言いたいんだろうな」とわかってはいるが、
それはそれとして自分自身では A のつもりではない(A で説明するには自分の中では違和感がある)。
そうすると、取り敢えず A の部分は無視する事になる。
A 自体が面白いフレーズだったら A という人について考察することはする。
人格を決めつける議論一般に成立しそう
分かりづらいけど多分アレはブーメランジョークだと思う
自分のもとに戻って来るタイプじゃなくて、相手が投げてる物をブーメランにして投げ返すタイプのジョーク
a として言及するよりも抽象化して A として議論したいことがあるが、
その抽象化が誤っていると相手が感じる場合に響かない。
更に、相手が反発心を覚える場合は相手からは詭弁に見える事もある。
早まった一般化、レッテル貼り、藁人形論法、他にもあるかしらんけど
自分が A として言及されると「ちがくね」という言及される側のお気持ちが体験できる。
色々学びがありそうなんだけど、取り敢えず寝る。