批判をするけど、批判をした本人は批判した内容をしていない前提が求められて、結果的に批判者に完璧を求められる構図がある気がしている
from 2026/06/18
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全然関係ないけど、批判をするけど、批判をした本人は批判した内容をしていない前提が求められて、結果的に批判者に完璧を求められる構図がある気がしている。
批判をした本人は批判した内容をしていない前提が求められて:所謂お前だって論法で返されるってやつかしらSummer498.icon
お前だって論法を理解していないですがおそらくそうだと思います。とすると結果的に批判者って構図的に不利だよなぁと。ブレーキ役として機能する上では重要ではあると思うのですが。HelloPeople.icon
発言者も文脈の中に取り込まれてしまうため客観的・中立的な意見というのを発言できなくなる?
そもそも客観的・中立的な意見って存在するんだろうか?目指している方向性としては存在していて実際はどれもが文脈に依存しているとも言えるだろうし。
客観的・中立的な意見は理想的なものなのかもしれないSummer498.icon
例えば、ポイ捨てをするなと注意したら、相手に「お前だって先日~」と返されるやつです。Summer498.icon
ポイ捨て程度なら言い返す側がマトモにも見えますが、誰でもやらかしそうな失敗や、共に歩み寄っていかなければならない事柄に関しては批判を行う側もある程度のやらかしがあって然るもので、それをダシにして言い返すという論法を取ると誰も何も言えなくなるという感じのやつです。
ポイ捨てとは逆に言い返す側が理不尽な主張をする例を上げるとしたら、スピード違反を追跡したパトカーに対してスピード違反をした側がお前だって速度超えただろうと言うような感じのやつです。
あとは(特にビジネスの場では?)代案も求められる気がしますsta.icon
なので代案無き批判を出しづらい or 出せない
ブレーキ役として機能する上では重要ではあるのように、何かがエスカレートした時に止める意見という意味で批判は重要だと思うのですが場が支配的だと難しいのと個人攻撃と錯覚しやすい見た目になるため。
#批判には対案を
まあそれで言えば、そもそも批判がNG(ネガティブNGのように表現されることもある)になりがちですが
ああ、それは「注意した人が注意された人より偉い」みたいな見方をする人がどこにでも一定数いる(と思しい)のが要因ですね…Nrem.icon
ちなみに注意した人がどう認識しているのかはあんまり関係ない。慣習と経験の問題
あと単に「怒られ」そのものへの向き合い方の個人差もある
正直面倒な問題です
これはあるので、批判時は「自分もそうではあるのですが……」などと付言することもあるseibe.icon
批判を言わない、という手段もあるだろうが、そうすると誰も何も批判できなくなってしまう可能性があるので、意図的に自分のことはいったん脇において考えることが多い。で、あとで戻す
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「実力もないくせに指導や教育をするのはありえんでしょ」的な論も似ている気がした
指導や教育の中身の正しさが自分にはわからない場合に、それを推測する材料として指導者の実力を参考にするのは一定の合理性がありそうyosider.icon
指導者の実力と指導内容の正しさに一定の相関があるという仮定
その中身がリベラルアーツ教育か職業教育かによっても、指導者側(教員)の正しいとされる振る舞いが変わりそうterang.icon
日本の近代化時に、高等教育体制を輸入したドイツの教育システムからの二分法を引きずっている気もしつつ(この辺うろ覚え)
カント-フンボルト的Bildungと、ルター-ウェーバー的Beruf
教育の場合、指導者としての適正と指導内容での実力は別な気がするnyarla.icon
例えばスポーツなんかでは選手の方が圧倒的に上手いけどコーチとかがいる訳で
ただ他人に教えるためには自身の理解力も試されるので、その文脈での実力は要るかも
別と思う、けどまったく無関係というわけでもない気がしたyosider.icon
お前だって論法が詭弁だというのはとても大事な話だと思うんだけどなかなか理解されない。ネットみてるとSyamuのほならね理論の引用が唯一の言及に見えていて変な気持ちになる…はるひ.icon