慈悲の心を知りつつある
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すてきだcaki.icon
感謝Summer498.icon
成長を喜んでもらえることは喜びが大きい
知りつつあるのは良いとして……Summer498.icon
慈悲の心はその崇高そうな字面と安寧に溢れる心象の割に、還元主義的に分割して統合すると非常に残酷な部分がある。
言語化するとグロい。グロい言語化しか出来ない未熟さを嘆くべきか?
脳内ホルモンで良さげに彩られているだけではないかとさえ思う。
されど、それが共感あるいはミラーニューロンを通して伝わるのであれば、慈悲の心そのものが良いことなのだと思う。
慈悲の心、心のありようそのものだけでは成立せず、そこから生まれる行動、迷い、痛み等々を含めて初めて存在できるものである気がしているcaki.icon
慈悲の心を持とうとする者は、慈悲の心を崇高なものだと考えていてはいけなく、それを取り組みの一部ととらえるべき、みたいな…まだ見えてない部分が多く雰囲気しか言葉にできてない
それはあらゆる心に言えることではないか……いや迷い、痛みの部分がなんか違う……ただ、心のありようそのものだけでは成立しないのはあらゆる心に言えることだと思うSummer498.icon
それは崇高なものではなく、醜悪な心にも共通していて、心の中に醜悪なものが存在していても振る舞いに反映されなければ存在が疑わしい……、
めっちゃそれcaki.icon
本人にとっては確信的だが客観的には疑わしい。
痛みとか迷いのとこについては、リソースの限られた人間である以上、慈悲を示そうとする対象やその大きさを選びとる必要があって、それを持とうとすることによって発生する無慈悲の存在も同時に受け入れなきゃいけないし、みたいなことを考えて書いていたcaki.icon
心的概念である慈悲と有限資源が結びついているのが、それでいいのかなんか微妙なラインを感じるSummer498.icon
でも逆に痛みと迷いを場面場面でずっと直面し続けるのもまた心的に疲弊してしまうような……、そうか?(え!?)
痛みを痛みとして、迷いを迷いとしてちゃんと受け止めて吐き出したら……、
しかし、それを行う時間が有限であり……、
微妙に違う概念を思い描いているのだろうか?考えてみよcaki.icon
慈悲の心それ自体は、測定できないものなので、それを持っているかどうかを自分で言うことはできなく、できるのは「心に思い描いたそのような信念をベースに慈悲の心を持とうとする取り組み」であるので、有限と思っているのかも
例えば、迷惑な虫が居たとして、それはそれとして虫も頑張って生きているのだ。その生命の継続を存続させるにはどうするのが良いかと自然と考えるのが慈悲の心だと思うSummer498.icon
逆に羽虫が迷惑とにかく殺そう、ウザいし。が無慈悲。
自分は必ずしもこうは思ってないかも、うーむ、自分が思ってるのは慈悲じゃないのかな?caki.icon
わかりにくくごめん、これは自問caki.icon
それは良く知らんから、探求心があれば頑張ってくれ。Summer498.icon
この話と関係あるかあんまみえてないcaki.icon
いや良くわからんけどなんか繋がった。Summer498.icon
おもしろいcaki.icon
フレーズだけ、字面だけ繋がった感じで、文脈は特に考えてない。
あ!つながりがわかった、なるほどcaki.icon
これを尋ねられている時のSummer498.iconは部屋に虫が入ったら殺すタイプ。確殺する。逃がしたら戻って来る可能性があるし。
一方、慈悲ってこれかなーと思った時は虫にも命があるというのをなんとなく腹落ちしている。
この言い回しは論点はおかしいが、グロテスクにならないような言い表し方はこのくらいになる。
じゃあ私の指す慈悲の心は別に有限性とは関係ないような
あ、だから心的概念である慈悲と有限資源が結びついているのが、それでいいのかなんか微妙なラインを感じるのか。
虫のことは死ぬほどウザいし居なければ楽になるが、部屋から追い出すことで無関係で居られるなら、部屋から追い出すだけで自分の回避欲求を満たしつつ虫の生存を尊重できる。Summer498.icon
その手段を取らずに、ハイ家にいる虫全員ウザいので殺す、となると何かしらが無い感じはある
この虫が毒サソリとかだとどうなるだろうか?caki.icon
回避できないくらいの大量の虫だとどうなるのだろうか?caki.icon
みたいなことを(勝手に)考えている
家に箒があってですね(そういう話ではない)Summer498.icon
無慈悲→全部殺す
慈悲→なるべく生きるように追い出す。やってもうたら流石に仕方がない。
無益な殺生(攻撃)を率先してやるかどうかかもしれない?
これはたとえであって、本質的には自分の大切なもの、たとえば自分の命とか、信念とか、ライフワークとか、そういうものを自分が失うか、相手の大切なものを奪うか、となったときに、どう振る舞うのが慈悲なんだろうか、相手を尊重するのが慈悲なんだろうか、自分自身の存在に対する敬意は尊重されるべきではないのだろうか、みたいなことを考えていたかもしれない、とここまで書いて慈悲よりもうちょっと大きな概念のことに勝手に考えが飛び火していることに気付いたcaki.icon
すぐこれをやってしまう、申し訳ない
愛って何だ?の次のバージョンが来たSummer498.icon こういう感じのテーマの同人誌ばっかり書いてるのですぐこの方面のことを考えてしまうwcaki.icon
それはそれとして、「慈悲の心を持とうとする者は、慈悲の心を崇高なものだと考えていてはいけなく、それを取り組みの一部ととらえるべき」というのはとても良くわかる。