少子化対策に使われるプレコンセプションケア
こども家庭庁が推進するプレコンセプション政策が、この語の元来の目的であった「母子の健康支援」とは裏腹に、個人の自己決定権(特にリプロダクティブ・ライツ)を侵害しかねない、という話(と、読んだ)。terang.icon
この記事
インタビュイーは斉藤正美
以下は思ったこと
生権力っぽさ。
プレコンセプションケアという一見中立的で科学的かのような装いの政策が、妊娠や出産というプライベートな領域に、国家が「人口(少子化対策)」というマクロな目的のために介入するための道具となっている。
かつての「産めよ殖やせよ」を、現代的なケアの言葉で覆い隠した構図だろうか。
適切なパターナリズムとしての正当化は困難そうよなあ。
これまでの約四半世紀、日本の性教育をストップし、ユネスコが提唱する「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」に基づく包括的性教育の実施を拒んできたのは、政府自身
5億円という予算規模をどう見るか?
そんなに大きなものではないと感じられるが、単にコスパで語れる話でもないし、功利主義的に捉えるにしても上記の件を踏まえればこの施策によって生じる不幸や苦痛を計算に入れねばならないからなあ。。
ところで自分が思ったことは、現代リベラリズムの観点が強く入ったコメントと思われる。
他の立場からはどのように映るだろう?
コミュニタリアンからすれば、個人の自己決定権よりも、我々が属する共同体の存続ができないと、その個人の自由も意味をなさないという反論があるかもしれない。
近代国家を重視(ナショナリスト?)ならば、コミュニタリアズムと同様、国家の発展や維持を重視する。つまり少子化は国家の衰退だから、国家が担うべき安全保障としてこの政策を擁護するかもしれない。
伝統的家族観を重視する人々ならば、「健全」な「家族」を築くことは、道徳的に善だと言いそうだし、むしろ伝統や家族の価値を軽んじる個人主義的な主張だと批判される可能性がある。若者に、家族を持つことの素晴らしさを伝えることは、「正しい」行いなのだろう。