原子爆弾
atomic bomb
アメリカにおける原子爆弾
アメリカにおける原子爆弾の開発は、一般的には「マンハッタン計画」と呼ばれる。その歴史的な流れは以下のとおり。 開発の経緯
ドイツより先に原爆を完成させ、戦争を有利に進める(抑止する)目的で始まった。
マンハッタン計画とは
1942年から本格的に始まった、アメリカ政府と軍による極秘プロジェクト。 物理学者J・ロバート・オッペンハイマーを研究リーダーとし、国内外からトップクラスの科学者が集結しました。約13万人以上の人員と20億ドル以上(現在の価値で約300億ドル/約4.5兆円以上)の予算が投入された。
これは当時の米軍の戦車開発費の三分の一、小銃などの軽兵器開発費に匹敵する規模だった。
アメリカエネルギー省(DOE)による公式ヒストリーレポート。
どこで作られたのか?
アメリカ国内では主に3つの拠点があった。
完成と投下(結果)
トリニティ実験: 1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初となる人類の核実験に成功した。
日本への実戦使用: すでにドイツは降伏していたが、戦争を早期に終結させるという名目(およびソ連への牽制など)で、日本への投下が決定された。
1945年8月6日: 広島にウラン型原爆(リトルボーイ)を投下。
1945年8月9日: 長崎にプルトニウム型原爆(ファットマン)を投下。
Smyth Report (1945) - 米国政府が原爆投下直後に公開した公式報告書、および各自治体の平和宣言。
日本における原子爆弾
開発の背景と着手
1940年頃から陸海軍それぞれが原子爆弾の可能性に注目し始める
両者は組織間の対立(セクショナリズム)により、技術や情報の共有を一切行わなかった 技術的課題と停滞
ウラン235を濃縮するための「熱拡散法」や「遠心分離法」が検討される
理研に熱拡散塔が建設されたが、理論通りの濃縮を確認できず難航
原料となるウラン鉱石の確保が国内外で絶望的な状況に陥る
1945年4月の空襲により、理研の主要な実験装置が焼失し研究が事実上停止
米国(マンハッタン計画)との決定的な差
アメリカは20億ドル(現在の約4.5兆円以上)を投じたが、日本は微々たる予算しか割けなかった
日本は物理学者、化学者、技術者の連携が組織の壁によって阻まれた
本土空襲による電力不足や資材供給の寸断が、精密な実験を不可能にした
資源、資金、組織力のすべてにおいて、核兵器を完成させる国力が欠如していた
終戦
終戦直後、GHQにより理研などのサイクロトロン(粒子加速器)が接収される
「原子力の軍事利用の証拠」として、これら装置が東京湾に投棄される
日本の核物理学研究は壊滅的な打撃を受け、平和利用への転換まで空白期間が生じる
ナチス・ドイツにおける原子爆弾
ナチス・ドイツでは核兵器開発プロジェクト(通称:ウラン計画)が進められていた。 開発の背景と着手
1939年、陸軍兵器局のもとで「ウラン計画(Uranprojekt)」が正式に発足する
この動きがアインシュタインらの警告を招き、アメリカのマンハッタン計画始動のきっかけとなった
技術的アプローチと停滞
核分裂の連鎖反応を制御するため、減速材として「重水」を使用する方針を採る
ノルウェーの占領下にある重水製造工場に依存していたが、連合国軍の破壊工作により供給が断たれる
濃縮ウランの製造よりも、まずはエネルギー源としての「原子炉(ウラン機)」の完成を優先させた
理論的な計算ミスや実験の遅れにより、連鎖反応の継続(臨界)にすら到達できなかった
開発失敗の主な要因
ユダヤ人迫害により、アインシュタインら多くの有能な物理学者が亡命し、アメリカ側に協力した
ヒトラーら指導部が「すぐに実戦投入できる兵器」を優先し、基礎研究に時間がかかる原爆を軽視した
アインシュタインの相対性理論を「ユダヤ的な物理学」として排斥する動きがあり、科学的発展が阻害された
V2ロケットなどのジェット兵器開発に予算と人材が優先的に割かれ、核開発は二の次となった
終戦と「アルソス」任務
1945年、連合国軍の特殊部隊「アルソス」がドイツの核施設を制圧し、研究成果を接収する ハイゼンベルクら中心的な科学者はイギリスのファーム・ホールに抑留される 広島への原爆投下のニュースを聞いた際、彼らはドイツが開発に失敗した事実と、アメリカの成功に大きな衝撃を受けた