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巌流島の闘い・1612( 慶長17) 年
武蔵( 30歳) ・小次郎( 25歳)
その日は快晴ではなかったが、暑くもなく寒くもなく、薄雲がかかっているくらいで、たまに陽が差す程度の日和(ひより)だった。
風はほとんどなかったが、海に出ると潮風程度はあった。
ちょっと削ろ
史実にある通り
小次郎は先に船島( 巌流島)に着いています。
小次郎の身長は181センチあり、当時の日本人の中では、抜きん出て高身長でした。
武蔵は 小次郎と比較すると目立ちませんが、それでも172センチあり、当時ではやはり高身長の部類に入っています。
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小次郎は全体的に細身で、スラッとした痩せマッチョで、武蔵は大胸筋が発達したごつい感じのやはり日本人離れした体格でした。
武蔵は約一刻国ほど遅れて島についています( この時の一刻は約15分) 。
現代でまことしやかにいわれている「 遅れたのはワザとで、武蔵の策謀ではないか」 というのは間違いで、当時は 全体的に何事も「 アバウト」 でした。
また小次郎も武蔵もスポットに入ってしまっていて「 時間を守る」 どころではなかったようです。
巌流島の直前、武蔵は高揚し過ぎてしまって、長い時間ボーっとしています。
場所は対岸にある庵(いおり)のようなところで、一人で自分の世界に入ってしまっています。
もちろん決闘時の戦いのシミュレーション もやっていますが、はたから見ると、ただボーっと立っているだけのように見えます。
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現在の巌流島付近の海域
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だいぶ時間が過ぎてから、ハッと我に帰り「 あ、急がなきゃ」 という感じで船に駆け込んでいます。
決してわざと遅れたわけではなく、自分で船を漕いで、小次郎の待つ海岸に着いています
小次郎も武蔵も自分で船は漕げましたが、当時の島の周りは潮流が速く、流れが複雑で、しかも当時は岩礁があちこちにあり、通常素人では危なくて渡りきれない難所でした。
それでも二人は普通に漕いで渡り切っています。
二人とも付き人はいませんでしたが、どちらも有名でしたから、二人のファンといいますか取り巻きはいました。
今日が決闘の日だと噂は広がっていましたから、遠巻きに応援、見物に来ています。
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小次郎のファンは島には上陸 せずに、対岸や船の中、近くの岩礁などにバラついて見学、武蔵のファンは、島に上陸していて、遠くから囲んで見ています。
小倉藩からは家老の沼田から派遣された武士が二人、三方を垂れ幕で囲まれた場所に座って検分しています。
ただ剣術が好きで来ているわけではなく、そういうものに全く興味がないような書記とか勘定職が立ち会いとして来ています。
何故そんな事をしたのかといいますと「 公平を期すため」 といわれました。
武蔵と小次郎の人気は当時本当にすごくて、ファンは完全に二分していて、「 巨人ファン対阪神ファン」 という感じで普段からお互い「 どちらが強い」 と競い、煽(あお)っています。
家臣の中にも二人の贔屓(ひいき)といいますか、ファンがいますので、家老の沼田は公平を期すため、ワザとあまり関心のない臣下を派遣していました( この辺りの沼田の采配(さいはい)は中々です)
そして当時、 一般に剣豪は獣(けだもの)のようにいわれていましたから、二人の立会人は普通にビビっています(  実際、後年と比較すると、この時代の剣術修行者は、そのほとんどが酷(ひど)いもので「 どんな卑怯な形であっても、相手を倒した方が勝ち」 というのがまかり通っていました) 。
また一般人に対しても、乱暴狼藉(ろうぜき)をはたらく者が後を絶たず、兵法者の評判を落としていたことがあります。
そんなわけで何されるかわからないと思い、できるだけ遠く( ギリギリ見えるところ) に幕を張り、渋々立ち合いをしています。
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あまり波もない 砂浜に武蔵の舟が着きます。
武蔵のいで立ちは普段着で、上は厚手の着たきりに、下は普通の袴(はかま)。
小次郎も普段着のままで、一重(ひとえ)の着流しで、地味な色の衣装。
二人とも襷(たすき)などはしていなくて、ハチマキもなく普段のままです。
ただ小次郎は、着物の裾(すそ)の片方を上げて、腰の帯に掛けています。
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これから決闘するのに、そんな姿でいいのかと思いますが、二人は普段から「 決闘状態」 で生きていますから、別段何かを変えるということはしていません。
常住坐臥(じょうじゅうざが)「 死」 と対峙(たいじ)しているのが、当時の剣術修行者の有様(ありよう)でした( 特にこの2人は) 。
武蔵が降り立った砂浜は、足がめり込んでいくようなやわい浜ではなく、砂浜ではありますが、海水で濡れた感じの黒っぽい砂浜で、わりとシッカリとした踏み応(ごた)えのあるスペースになっています。
どんなシチュエーションでも何処でも闘うことができる二人ですから、砂浜に文句はなく、むしろ「 広々としていて、いい舞台だ」 くらいの感触です。
武蔵は船から浜に降り立ち、小次郎をフォーカスします。
の時小次郎が先にスラリと剣を抜いています。
( 伝わっている通り) 見た感じとても長い刀で、優雅に下から回すように抜いて( その太刀裁(さば)きがすごくきれいです) 斜め下段に構えています。
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そしてそのまま動きません。
武蔵は舟が着くとほぼ同時に右手に木刀を持ち、左手で真剣を抜いています。
木刀は少し長かったので削って持って来ていたもので、よく言われているように( 舟の) 櫂(かい)を削って作ってはいません。
この中継は植芝先生が担当ですが、腕組みをしながらワクワクされています。
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試合を見ながら熱く燃えていらっしゃるのですが、それを見たみわが「 暑苦しいみなさん・・・」 とポツリ洩 らしています。
小次郎も武蔵も裸足(はだし)です。
そのままお互い間合いを計っているように動きません。
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おそらく一刻( 15分間) はそのままでした。
対峙した瞬間に「 力は互角」 と双方が判断していたのです。
ですから動けない。
本当にわずかな隙を探るため動けないのです。
武蔵も小次郎も、より自分と伯仲した強い相手を見るとワクワクする、そのために生きているといってもいい獣(けもの)です。
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お互い反発しつつ、混じり合う機会を狙っていて、次第に混じり合っていくと、その緊張とワクワクがピークに達して、はち切れた時に動いている。
5メートルはお互い離れていたが、それを瞬時で縮めて、ひとっ跳びでぶつかり合っている。 ここまで小倉藩の立会人は何をしていたのかといいますと、最初は手に汗握って固唾を飲んでいますが、二人が全く動かないので、だんだん飽きてきています。
当然二人の「 内の気」 「 外の気」 の闘いなど全然見えていないのです。
多少の心得はあるものの、そんなに詳しい人たちではなく、とりあえず派遣された人たちなので、武蔵と小次郎がただ黙って立っているとしか見えていません。
立会人を乗せてきた船頭などは、はなから関心がなく、船で反対を向いてプカプカ煙管(きせる)を吸っています。
武蔵と小次郎ぶつかっては離れて、間合いを取るということを数回しています。
ここで既に結構な長丁場になっています。
お互い致命傷はなく、武蔵は脇の皮を一枚スーッ切られ、小次郎は顔に同じくスーッと皮一枚のほんの少し血がにじむ程度の傷がついています。
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逆にいうと二人が数回ぶつかってその程度で済んでいるという事です。
実力が伯仲していて、だからこそ時間がかかっているのです。
そしてまた 間合いを詰めていくのに10分ほど時間をとっています。
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再びぶつかり合いの衝撃。
この時はお互い傷ついていません。
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分かってはいましたが、実際に手を合わせ、
お互いの実力を確かめ合うことで
感極まっていたようです。
たまに「 にやっ」 とか「 ふふっ」 と笑っています。
彼らの肉体の細胞一個ゝが歓喜に震えている。
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その状態でまた数回繰り返し、
ここで小一時間経っています。
すごい集中力で、ワクワクしながら
やっていますが、肉体は疲労困憊(こんぱい)、
それでもお互い致命傷は受けていません。
この時は、二人とも姿が綺麗です。
・立会い 姿が無骨ではなく、
洗練されている
切羽詰まった殺伐(さつばつ)さがなく、
殺し合いとは違う
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殺戮(さつりく)に飢えている獣ではない、優美な感じ・・・
余裕のある獣という感じ
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とにかくカッコいい
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高度というには、
ものすごく精緻(せいち)な動きと反応、
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ほとんど人間技ではない。
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収録していて思った
「 まるで漫画みたい」
とても現実とは思えない
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それくらい洗練されているし、
美しく舞っている感じ。
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ニジンスキー絶頂期の跳躍(ちょうやく)を見ているよう
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だから後世に残った。
そしてその時がやってきます。
一瞬の出来事ですが、一番大事な場面ですので、画を交(まじ)えながら
詳しく解説しておきます。
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チャ!
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①小次郎が刀を下段から横、横から上段へと
踊るように( 円を描くように) 回していく
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②その時武蔵が一瞬ひるんだように見えた
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③心が動いたのは小次郎
④その「 迷い(ひるみ)を見て武蔵の木刀を裁断できる」 と感じた
⑤それは武蔵の作戦であった( しかし無意識の意図しないものだった)
⑥武蔵は小次郎の太刀を、やはり円を描いて受けている
⑦木刀で受けてはいるが、それがスパンと切られている
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カッ
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武蔵はその時「 しまった」 とは思っている
しかしどこかで「 ああ・・・」 と納得するところもあった
( 人間的には揺れている)
⑧つまりはここではまだ達観しきってはいない
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それまでも木刀は傷ついていた
なぜ木刀で受けたのか「 木刀でも受けられる( 通常の太刀なら) 」
「 木刀でも、気を込めると刀のようになる」
⑨武蔵「 木刀を切らせたから勝てた」
⑩鎖骨はもっていかれるが仕方ない
⑪刺し違えで勝つしかなかった
⑫小次郎からすると「 木刀を切ったから、勝った」 と思った
⑬武蔵はそこに隙を見た
そもそも木刀 など使用せずに、初めから真剣二刀でやればいいじゃないかと考えますが、そこは違うようです。
「 美学に近い勇気」 のようなものだそうで、「 戦いの本質は太刀ではない」 としています。
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現代 感覚では「 木は鉄より弱い」 のが常識ですが、「 弘法筆を選ばず」 で、こっちはキッチリ達観しています。
しかしそれを切ってしまったという事は、小次郎の気迫(きはく)がそれを上回ったということでしょう。
木刀裁断からのシーン
武蔵の鎖骨までで止め( 鎖骨は裁断されています) 。
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武蔵は木刀を裁断した小次郎の長剣を左の剣で受けて、円で外して、そのまま返し外した小次郎の剣を、裁断されて残っている木刀で支えながら、左回りに返す真剣で右脇下から心臓まで撫でるように切っているこの時武蔵の剣は、小次郎のあばらを断って心臓までいっています。
それほど武蔵の膂力(りょりょく)はすごかった。
並の人間なら両断されていますが、しかし 小次郎の気力が違ったのでしょう。
この二人は 接近戦でも間合いが取れる人たちで、それが二人の特殊な力、修行のたまものでした。
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小次郎を両断できない何かが、お互いにあったという事です。
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植芝先生
「 いってしまえば気よね」
「 間合いって気の闘いでもある」
「 呼吸なのよ」
小次郎はこの時絶命しています。
小次郎の最後の思いです。
「 ( 安らぎ近い思いの) 楽しかった」
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人生がとかではなく、武蔵との闘いが楽しかったと満足しています。
その時は武蔵も同じ思いでした。
命のやり取りはしているが、命がどうだということがない獣を出し尽くした、食い尽くした・・・昇華した
「 食い尽くし合う相手で食い尽くされたから安心・満足」
・・・武蔵も 小次郎も同じ思いを共有していました。
小次郎の人生はここで終わりますが、ご存知のように武蔵はまだ続いていきます。
しかし武蔵の一つの時代が終わっています。
●幼少時からのトラウマ・葛藤
●大人になってからの命をかけた実戦
●沢庵との問答から得たもの
●小次郎との対戦でそれらが結実しています。
小次郎の中の獣、武蔵の中の獣、お互いの獣が食い合って
「 やっとこれで終わった」
「 終わらせることが出来た」
この時は心底そう思っています。
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真の剣の奥義・極意とは
小次郎が武蔵の木刀を裁断したとき、 一瞬「 勝てた」 と思うことで負けている。
そう思わせた武蔵の意識下の狡猾さ( 一見隙に見える体勢をとるということ) 。
それが働くのが、意識と無意識の境目の勝負。
その塩梅(あんばい)が剣の極意・奥義 だが、これだけ書いても、一定段階の権剣に至っていないと、通常は伝わらないし、伝授できない。
だから奥義。
小次郎はそこを例の「 無明の師」 から教えてもらっていたが、最終的には武蔵の実戦経験から来る練度(れんど)に負けている。
しかしそれも沢庵との最後の邂逅(かいこう)( 座禅による自らの暗部へ俯瞰(ふかん)) がなければ、勝負は不明だった。
その後1
武蔵は鎖骨裁断の傷を自分で手当てしています。
手当てと言っても特別何をするという事でもなく、ただ布でぎゅっと抑えているだけです。 (  もちろん包帯などありません) 。
それで止血しています。
止血は武人の心得で、気力で止めています( それでもダラダラ流れていますが、貧血を起こすほどには至っていません) 。 ちょっと落ち着いたところで、普通の人間の疑問として「 左の鎖骨を裁断され
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て、よく左手で小次郎を切れたね」 という事があります。
しかし何度確認しても、それが事実であり、結局それが武蔵だったという事なのでしょう。
さてこれからが史実にない現実です。
武蔵と小次郎という二つの獣、外道のショーが終わると、人間の登場です。
それをお楽しみください。
小倉藩の立会人は、壮絶を通り越して「 長かった」 というのが実感のようで、大分げんなりしています。
そもそも見ていたのか確認しますと、
「 決着の時は、見ていなかった」
「 あまりにも早くて、よく分からなかった」
決着がついても「 こんなものか」 という感じでした。
小次郎は、ほぼ即死でしたが、武蔵も見た目以上に重傷でした( 武蔵自体は平気な顔をしていますが、結構な流血はしています) 。
それを見た武蔵の取り巻き達は、近寄ってきて、小次郎の死体に対して踏んだり蹴ったりして( 普段からの) 憂さ晴らしをしています。
「 普段からの憂さ晴らし」 とは 前に書きましたように、小次郎は小倉城下では女性に人気が物凄くありました。
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なので武士はもちろん、町人や職人の中にも快く思わない者がいました。
大概は嫉妬ややっかみですが、それをこの時とばかり発散していたのです。
流れ者の小次郎には、基本嫉妬しか行かなかったということがあります。
それを遮(さえぎ)る( コントロールしてくれる) 後ろ盾(だて)や仲間がいなかったという事がありました。
また小次郎自体に、そういう社会的な才覚もなかったのです( 必要もなかったという事が言えますが) 。 ここからの情報は例の立会人たちの、家老沼田への報告にもありますが、史実ではだいぶ脚色されていますので、実際の状況を書いておきます。
船島( 巌流島) 周辺には、武蔵や小次郎の取り巻き( ファン) がいましたが、小次郎ファンは島に上陸していません。
しかし武蔵ファンは島にいて、武蔵が深手を負ったのを見て、先程書いたように、死んでいる小次郎に対して不敬な行いをしています。
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武蔵は事前に「 一人で島に行く」 といっていましたから( 武蔵のせいではなかったのですが) ファンたちの所業を恥じています。
そのためこの後、小倉藩の家老沼田から仕官を打診された時、それを断っています( この事情は少しややこしいので、後で詳細説明します) 。
小次郎の遺体は立ち会い人が持ち帰り、小倉藩の方で処理しています。
住所不定、流浪の人ということで処分され、一応墓場に埋葬されていますが、簡素な墓でした。
密葬で、墓は土饅頭(つちまんじゅう)に石を置いただけで、戒名(かいみょう)はその時付けて
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いませんでした( それは当時としては普通です) 。 それから何年かして流れて来た風聞(うわさ)で周防(すおう)の実母は、おぼろげながら「 そうだな・・・」 と感じています。
「 まっとうしたね」
「 心配は心配だが、何もしてあげられなかったふがいなさ」
「 でも好きなことをやっていたという安心感」
「 しかし 一番大きな部分を占めていたのはあきらめ」
彼女の人生の中で、そういう形で小次郎を始末しています。
小次郎の父親の方も噂を聞いて知っていますが、
「 好きにするがいい」
という感じでした。
それが無慈悲な放置ではなく「 運命にゆだねる愛と」 でもいうのでしょうか。
二人ともさっぱりしていて気丈なのです。
小次郎というキャラを産むだけのことはあるという印象です。
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その後2
巷(ちまた)では「 武蔵が勝ったらしい」 という噂が、2、3日後漣(さざなみ)のよう
小倉城天守閣
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に広がりました。
でも見ていたものが 専門家ではなかったので 立会人は、
「 一瞬で勝負がついてしまった」
「 まあ、すごかった」
というくらいしか言えなかったのです。
で、あれこれ 噂の尾ひれがついています。
それが後に様々な伝承や物語につながっていきました。
決闘をコーディネートした手前、小倉藩では放置することもできないので、家老の沼田が自分の屋敷に武蔵を呼んでいます。
( 格闘技好きの) 小倉藩主の細川忠興(ただおき)は「 会いたい」 「 決闘の様子を聞いてみたい」 という思いはありましたが、一介の浪人にダイレクトに会うわけにはいかなかったようです。
沼田は武蔵に目通りし、通り一遍の褒め言葉だけを与え、一応「 エサ」 は投げています( 仕官をほのめかしていますが、明確なものではなく、禄高(ろくだか)もお涙程度でした) 。
武蔵はそれが気に入らず、また自分の( 自称) 弟子たちが、決闘 後に小次郎に 父兄を働いたことを恥じ、合わせて断りを入れています。
沼田も「 まあ、いいだろう」 くらいな感じで納得していますが、誘いを断られるとは思っていなかったようでした。
この時、多少不快には感じています。
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沼田家記
それが後に残される「 沼田家記」 ( 沼田家の記録書のようなもの) に反映されてしまっています。
沼田家記には、事実 描写もありますが「 武蔵にあまりよろしくない方向に脚色されている」 というところも多々あります。
結局「 宇宙全史」 として先程書いた内容が正確です。
家老沼田と武蔵の交渉がスッキリしなかったのが原因ですが、ピュアな外道と人間界の思惑のギャップがもたらした結果ともいえます。
巌流島の意味①
この闘いでは、どちらが勝っても( あるいは負けても) おかしくない状況でした。
腕は互角、兵法における精神性も互角で、何がその勝負を決めていたのでしょうか。
現実は武蔵が勝って、小次郎が負けています。
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「 言ってしまうなら時代の要請ね」
というお答えが来ています。
「 時代の要請」 とは、この後に続く私たち人類の行く末を含む「 課題」 「 宿命」 「 道筋」 いうことのようです。
それが「 時代の要請」 であり、江戸期以降の人類が辿(たど)るべき歴史( 時代) のひな形ともいえるのです。
それがどういうものなのか、そこに何が要請されているのかは、また長くなりますので、詳しくは割愛します( 宇宙全史別巻の「 誰が地球に残るのか」 は詳述していますので、気になる方はそちらで確認してください) 。
ただそれでは身もフタもありませんので、この後亡くなる迄の武蔵を総括しておきます。
元々剣士として天才的なフィジカルを持っていた武蔵は、それを生かすべく兵法者として自己実現を目指しました。
そこは小次郎も同じですが、すでに書いておきましたように、二人の有様は全然違っていました。
小次郎は自分の外に重きを置かず、まさに天衣無縫(てんいむほう)の生き様を完遂(かんすい)しています。
武蔵はそこで迷ってしまい、自己実現( 目標) が二つに分かれています。
しかしその迷いが武蔵にとって人生の重石(おもし)になるか、バネになるかは彼の次の生にゆだねられました。
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そして武蔵が巌流島の勝負で勝ち残ったのは、我々人類が持つ課題を明確にイメージし、保持すべくあるためでした。
( ちなみに「 巌流島」 や小次郎の剣法の「 巌流」 という名称は、この時は使用されていませんでした。 後に誰かが「 こんな感じでいいか」 くらいで使い始めています)
巌流島の意味②
巌流島での武蔵と小次郎を収録していて感じたのは、
「 果たしてこの闘いが現代でも実現するのか」 という再現性の問題でした。
それは武蔵や小次郎というキャラの問題ではなく( それもありますが) 、古川が感じたのは、現代の時空間で、あれだけのパフォーマンスが出せるのかという事でした。
本文にもありますが、武蔵と小次郎の闘いは「 気」 と「 間」 の勝負でした。
それに伴う彼らの肉体も、信じられないくらいに「 飛び」 「 滞空し」 「 優美に」 舞っています。
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人間が真剣を持って闘って、あんなにも優美に動けるものかと、ちょっと信じられない感じでした。
植芝先生「 剣道は( 防具と竹刀を使用する限り) どこまで行っても遊戯だね」
防具なしで裸になって真剣を使用し、武蔵や小次郎のような華麗な動きが出来るのでしょうか。
植芝先生「 出来る」
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しかしそれは今の人間がどうやって「 如何(いか)に研鑽(けんさん)してもどうにもならないレベル」 のような気がします。
そこで確認しました。
植芝先生「 背景が違う」
具体的には「 時空間」 「 次元」 が異なるという事かと思われます。
あの時代の時空と現代の時空では、重さが違います。
向こうの方が「 軽かった」 ということがあります。
「 レベルが違う」
「 全体的な重さが違う」
「 時代を経て、徐々に重くなっていった」
( おそらく空間的な波動レベルの話だと思われます)
「 当時を百としたら現代は二百」
「 昔の人は身体能力も違うし、自然にも気にも馴染(なじ)む身体だった」
「 馴染まなければ生きていけなかった」 「 当時は合点(がてん)が早かった」
「 それが時代の重さの違い」
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だからタイムマシンで武蔵や小次郎を現代に連れて来ても、あのパフォーマンスは実現しないという事かも知れません。
昔は「 妖怪」 や「 お化け」 の話題がよくありました。
それは実際に彼らが棲息(せいそく)していたという事なのですが、時代の重さが増していくごとに、その姿が消えていきます( 「 宇宙全史」 別巻「 妖怪」 参照) 。
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「 時代の重さ」 は、世界の客観的な構造変化によりますが、生体自体の組成も、人の「 思い」 の「 重さ」 も、そこに深く深く関わっていました。
この辺りが精神世界を正確に理解する難しいところです。
だからこそ私たちは、その時代に合わせて、出来ることを精一杯に
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やるしかないという事なのでしょう。
しかし逆に「 今現在」 を視点にして、そこにこだわり、そこに固定してしまう精神性は、世界の広大さを知る術(すべ)が、両の手の指からこぼれ落ちていってしまうことでしょう。
小次郎はその時の生で、本当に満足して死んでいます。
ですからそこから( 小次郎) としての転生はありません。 武蔵も「 闘い」 としては昇華し切っていますが、彼の場合は他の業(カルマ)が残っていて、まだ集合魂(しゅうごうこん)には戻っていません( 集合魂の概念は「 宇宙全史」 で学んでください) 。
そしてこの後、武蔵の人としての後半生が始まっていきます。
それは獣として、外道として、小次郎のように シンプルに生き切れなかった武蔵の持ち越した課題でしたが、そこには人間の歴史的な意味もあったのです。
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巌流島その後
1614年・大阪の陣
巌流島の後、武蔵はしばらく 落ち着いた生活をしていますが( それでもあちこち放浪しています) 、1614年、巌流島の2年後には大阪の陣に参加しています。
一介の剣術修行者が、何故戦(いくさ)に参加するのでしょうか?
武蔵は関ヶ原の闘い( 1600年) にも参加しています。
巌流島の闘いで、武蔵の中の「 獣」 が昇華できたと書いておきました。
しかし武蔵の「 業(ごう)」 は深くて、巌流の時は「 押さえておくだけ」 で、「 枯れた」 というわけではなかったのです。
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それでは戦に参加して武蔵は何をしたかったのでしょうか。
獰猛(どうもう)な獣をとりあえず押さえておくだけだった武蔵は、「 血の匂いを嗅ぎたい」 という獣の業(カルマ)が、病のように突然発症しています。
「 獣が獣の匂いを嗅ぎつけて、惹(ひ)かれていくようなもの」 で、戦(いくさ)という社会的な現象で「 合法的にたぎりを抑える」 という事をやらなければならなかったようです。
もっと分かりやすくいいますと「 合法的な殺人、殺戮(さつりく)をやる」 ということです。
平時にいたら武蔵は「 犯罪者タイプ」 という事になるでしょうか( 犯罪者というよりアウトロー的な存在でしょうか。 それもエネルギーを持っていますから、マフィアか暴力団の超武闘派といった感じのキャラかもしれません。 ただ彼らは孤独を怖がりませんから、組織の一員ということではなく、やはり1匹狼的な有様(ありよう)を貫いています) 。
ただ武蔵には、沢庵も感じていた「 どこかに救いを求めるうぶさ」 というものがありましたから、残虐非道(ざんぎゃくひどう)な殺人者ということではなく、知的な求道者という面も持ち合わせていたのは事実です。
そういう面で自分の中の獣を、戦(いくさ)という合法 ステージの中で昇華させたいという事もあったのかも知れません。
大阪の陣の時、後に出てくる 柳生宗矩(むねのり)は、徳川秀忠(ひでただ)( 徳川2代目) のもとで従軍して、 案内役を務め、秀忠に迫った豊臣方の7人を瞬(またた)く間に倒したと伝承にあります。
この宗則の有様と、武蔵のそれは、同じ戦いに参戦していても、柳生は徳川のためという大義があり、武蔵のそれには大義がなかったのです( 個人的な兵法修行という大義さえもなかったといえます) 。
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1615年・鷹峯(たかがみね)の芸術邑(むら)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、ここでは初めて出てくる人物ですが、沢庵や柳生宗矩、武蔵などと関係があったので書いておきます。
光悦(こうえつ)はこの頃、京の北の郊外に邑(むら)を作っています。
その邑がいわば「 芸術邑(アートゾーン)」 といわれる、当時としては抜きん出たアートを生み出す拠点となっていました。
当然そういうところにはアーティストだけではなく、技術者や商人、大名や物好きな富裕層などが集まりますから、時代の先端を行く人物が出入りし、そこで柳生宗矩、沢庵、武蔵が知り合っています。
これはもう少し後になりますが、武蔵は沢庵に紹介され、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に会ったとき、有名な花魁(おいらん)の吉野太夫(だゆう)( 2代目) にも会っています。
太夫は光悦や沢庵などと対等に話すくらいの教養と知識を持っていました。
その時は太夫(たゆう)とほとんど喋ってはいませんが、吉野太夫の教養といいますか、明晰(めいせき)さに驚いています。
一介の遊女が、当代一流の芸術家たちと、当意即妙(とういそくみょう)に話すそのカッコよさに衝撃を受けています( 武蔵は本来無口といいますか、余計なことは喋らないタイプですが、太夫の洗練された語り口には、一種の憧(あこが)れのようなものを抱いたようでした) 。
既に武蔵は全国的な有名人になっていましたから、各地の大名や商人、茶人などに招待されて色々造詣(ぞうけい)を深めていました。
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獣の自分に足りないものが「 教養」 や「 芸術感覚」 だと認識するだけの頭は持っていたので、その足りないものを補う事で、これからの仕官の道の足しになるのでは、とも考えています。
武蔵は剣の達人で間違いないのですが、アート感覚もそれなりのものを持っています。
彼の優れたところは、何であっても、どんなジャンルでも「 こだわらない」 という長所があります。
「 勝つためなら何でもする」 というのは剣の道においてのことで、そこに「 人の道」 という人間道徳という抽象観念等を持ち込むことをしていません。
彼にとって巌流島まで剣の道は「 強さ」 と「 速さ」 「 胆力(たんりき)」 でした( 巌流島の小次郎との闘いで少し様相が変わって来ていますが) 。
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鷹峯(たかがみね)の
芸術邑(むら)
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真剣勝負は、いわば「 ケンカ」 です。
相手を倒した方が勝ちなのです。
( 真剣ですから) 倒されたら、そこで人生が終わります。
つまり相手を殺すことが正義だったのです。
そして殺すためなら何でもしました。
そこに躊躇もなければ、本来は形式的形式的な儀式も必要ないのです。
それがいつの頃からか、
「 やあやあ我こそは、何処(どこ)そこの出身で、◯◯流派の、何の某(なにがし)である」
我こそは〜
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という口上をお互い声かけ合ってから立ち会うという作法が、戦場などで繰り広げられていました。
それは自分たちの名声をあげたい、手柄を明らかにしておきたいという「 エゴ」 の成せる業(わざ)でしたが、実戦の場面ではあまり役に立たないどころか、悠長な所作はたちまち敗北につながりました。
そこまでいかなくとも、真剣による「 果たし合い」 や、戦場における「 殺し合い」 に、「 人道」 や「 道徳」 を持ち込むことは、余計なことだったのです。
ましてや「 人情」 など持っての外(ほか)でした。
それを突き詰めたのが「 獣」 です。相手を殺さねば自分が生きられない。
それがこの宇宙のセオリーであり、生き物に課せられた宿命ですが、そこに( 通常の社会的・人間的な) エゴがないという事があります。
武蔵が人生で初めて決闘した有馬喜兵衛は、武蔵が決闘を申し込んだ後、武蔵の知り合いが驚いて詫(わ)びを入れたことで相手が子供だと分かり、「 謝りに来たら許そう」 という温情を見せます。
しかし武蔵にとってそんなことは知ったことではなく、果たし合いの高札に決闘を申し込むための名を記した時から勝負は始まっていたし、覚悟も決めていました。
決闘当日、14歳にしては大柄な子供がやって来ると有馬喜兵衛は「 一括(いっかつ)入れるが、まあ、許してやるか」 くらいの感じで鷹揚(おうよう)に待ち構えています。
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そこに有無をいわず突進し、棒切れで殴りかかった武蔵は、体格にものをいわせて押し倒し、有馬が剣を抜く間もなく、殴り続け、ほぼ気を失ったところを、固い棒で思いっきり頭を強打し、とどめを刺しています。
有馬は兵法修行者といえど「 人の情」 「 武士の情け」 を知る人間っ
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ぽい人でした。 それをはなから無視する武蔵は、人の道を外れた「 外道」 であり「 獣(けもの)」 であったのです。
そこに人として見られたいという欲がないのです。
その「 獣」 は、小次郎の獣とは少しヴィジュアルは違うのですが( 人間の目から見た感じなので同じものですが) この後巌流島までずっと続いていきます。
それが小次郎と闘う事で、以前より少しずつ感じていた「 気」 のゾーンが覚醒しています( もちろん沢庵の指導も大きいですが、実戦の体得感はダイナミックで、身に染みています) 。
獣
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そんなわけで、あちこちで優れたアートに触れていますと、彼なりの感覚で「 成程、人間の世界にはこういう道筋もあるのか」 ということが分かってきます。
武蔵は兵法修行者として「 勝負で勝てば、人としてそれが一番」 と信じて生きて来ました。
しかしあちこちでの優れたアーティストや職人、坊主との出会いが、武蔵を少しずつ変えていきます。
中年期に入り、遅れてアートの世界に目覚めても、武蔵には「 こだわり」 があまりなかった故に、色んなものを速やかに吸収していったのです。
久能山東照宮
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1616年・家康没
秀忠二代目徳川幕府将軍になる
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1620年・沢庵隠棲(いんせい)( 47歳)
故郷の出石(いずし)戻り「 投淵軒(とうえんけん)」 という庵を結び隠棲に入る。
投淵軒に高松宮好人親王(たかまつのみやよしひとしんのう)が弟子入りに来ているが断っています。
この時期、沢庵を細川忠興、浅野幸長、黒田長政などの大名も招いているが、すべて辞退しているので、鬱になったのではないかと噂されています。
しかし別に鬱になっていたわけではなく( 古川にはよく分かるのですが) 沢庵の実態が「 魔導師」 ですので、一般的な人間が一時期鬱陶(うっとう)しくて「 ちょっと放っといて」 という感じだったのです。
会えばあったで、普通に対応はしますが、とにかく今は面倒なので「 ・・・・」 という事なのでした。
またずっと籠っていたということでもなく、結構あちこち出歩いています。
うき
うき
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1621( 元和7) 年・柳生宗則(むねのり)( 50歳)
後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役になる
武蔵はの事実を風聞で知りますが、それは武蔵が一番成し遂げたかった事でした。
幕府の指南役はもちろんですが、せめて大大名の指南役 くらいは果たしたかったのでしょう。
「 どうして私がなれない」 という思いが去来したのは否(いな)めないところでした。
武蔵はこの頃から「 指南役」 という社会性(ステイタス)と、「 兵法修行」という
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求道の間で、葛藤を深めていきます。
前からそういう傾向はあったのですが、宗矩の「 将軍指南役就任」 の報は、武蔵の認証欲求の比重を高めていきました。
巌流島の後の細川忠興(ただおき)( 直接的には家老の沼田) からの処遇にも不満を抱いていましたが、武蔵の中には「 自分を認めろ」 「 私の強さを認めろ」 というエゴがずっと渦巻いていたのです。
武蔵はそのエゴと、ピュアな獣としての兵法修行者の間で、このあと生涯揺れ動くことになります。
徳川家光
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ここで後の3代将軍家光が出てきましたので、彼の事情を少し話しておきます。
彼の人生で最も大きな影響を与えたのは、幼少期から子供時代にかけてです。
驚いたことに彼の心境を見てみますと、
「 自分の実母は乳母だ」
と真剣に考えていたようでした。
実の両親である2代目将軍の秀忠とその正室とのややこしい関係性をここでは面倒なのであまり書きませんが、後の家光の人間性に大きな影響を与えたのは、明らかに実の父母や周りとの確執がありました。
特に周りの重臣と両親、それに乳母( 当時は福(ふく)で、後の春日局(かすがのつぼね)) との政治的な思惑により振り回され、複雑な幼少期を過ごしています。
子供時代は誰でも世界が狭いので、家光にとって大奥が世界の中心でしたので、そこで自分を守り抜いてくれた春日局( 乳母) を「 本当の自分の母親」 と思い込むのも無理はなかったのでしょう。
特に家光は感受性の鋭い子でしたので、逆にこういう環境を経ていたため、癇癪(かんしゃく)や苛烈(かれつ)な一面を後に見せたのは否めない 側面でした。
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1624年・武蔵( 42歳) ・尾張( 愛知) で円明流指導
柳生宗矩(むねのり)は、石舟斎から続く柳生家を幕府の剣術指南の要として固め、柳生藩という大名家まで登り詰めています。
「 人を生かす剣法」 を標榜(ひょうぼう)する柳生の剣が、表( 体制) に受け入れられたのは、成るべくしてなったことであり、「 人殺しの獣の剣」 である武蔵が弾(はじ)かれたのはこれも当然のことでした。
しかしその事実( 事象) は、決して当たり前ではなく、歴史の流れの中に埋もれていってある人物を思い出さねばなりません。
それが佐々木小次郎で、彼は人殺しの獣でありながら天然自然の無垢な有様を汚(けが)していませんでした。
アフリカの荒野でライオンがウサギを食い殺すとき、そこに冷酷、残虐、無慈悲という有様はなく、ただ自然の摂理のままに、食べられるウサギも食べるライオンにも葛藤はありません( もちろんウサギは食べられるのは嫌で逃げは しますが、それも摂理です) 。
小次郎には幼少時からあまり「 葛藤」 という精神状態を経験していません。
それは沢庵などの求道者(ぐどうしゃ)最も望む精神の有様(ありよう)です。
なぜ「 葛藤」 がない方がいいのか、また何故「 葛藤」 がない精神を望むのかは「 宇宙全史」 で学んで下さい。
ここでは武蔵の巌流島以降の「 葛藤」 が、日本の、地球のその後の時代を象徴していたとだけ書いておきます。
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1625年・鷹峯(たかがみね)で勢揃い
丁度そのころ、武蔵は鷹峯(たかがみね)のアート邑(むら)で柳生宗矩と会っています。
この事実はそれぞれ事情があり、二人とも書き残していませんが、沢庵の仲介により本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)同席で直接会っています。
元々は宗矩と武蔵は会う予定はなかったのですが、偶然が二人の邂逅を意図していたようです。
そしてその出会い二人の生涯でこの一度きりでした。
へっへへ
それ
あてが
つくったん
やで
1625年9月
都( 京) の郊外であっても深山幽谷という感じではなく、昔話に出てくるような丸っぽい 山に囲まれ、鬱蒼とした林と水景が如何(いか)にも日本の山里という雰囲気を醸(かも)しています。
山の頂はうっすらと黄色味を帯びていますが、まだまだ紅葉には早い時期でした。空は澄み切って、ヒヨドリの鳴き声があちこちから聞こえています。
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光悦( 67歳) と太夫( 19歳)
光悦がお気に入りの吉野太夫(よしのたゆう)と茶室で話しています。
この頃既にすでに太夫の名は全国に知れ渡り、明国(ちゅうごく)にもその評判は渡っていました。
しかし太夫自体は150センチ未満の華奢(きゃしゃ)な女性ですが、評判通り見目は麗(うるわ)しく、所作(しょさ) はどこまでも優雅でした。
「 このお茶碗好きです」
「 へっへへ(  あてが作ったんやで) 」
「 今日は珍しいお客が来るよ」
「  どなたでしょうか」
「 お前が会いたがっていた、あの変わった坊主さんだよ」
太夫は信仰深かった。
3年後の22歳の時に、日蓮宗は常照寺に赤門を寄進しています。
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常照寺の赤門
今は吉野門
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俵屋宗達(たわらやそうたつ)( 55歳)
そこに宗達が鑑定用の刀剣を持って来ます。
「 山岡様から頼まれたのですが、判別が困難です」
光悦「 これは見事な・・・長谷部(はせべ)か?」
「 無垢(むく)だな」
宗達「 はい、磨(す)り上げていません」
光悦「 今時あるのか」
宗達「 しかしどこにも( 国重の) 銘(めい)がないのです」
光悦「 うむ・・」
「 よく出来きている」
「 むしろ贋作(がんさく)なら銘を入れるだろうに」
「 茎(なかご)は?」
「 鑢目(やすりめ)は切(きり)でした」
太夫をそっちのけで宗達と光悦が真贋鑑定を始めてしまいます。
太夫 はじっとそれを見ています。
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