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1571年・柳生宗矩(むねのり)誕生
1594年23歳・京郊外の紫竹(しちく)村において、父である柳生宗厳(むねよし)( 石舟斎) が徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際、父と共に家康に謁見(えっけん)し、父の推挙を受けて家康に仕えることになります。
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1572年・沢庵宗彭(そうほう)誕生
沢庵自身に関しての詳細は省いて、武蔵や柳生宗矩(むねのり)、徳川家光 などとの関係性においてだけ言及しておきます。
但馬(たじま)国 ( 今の兵庫県の日本海側にある) 出石(いずし)で、出石城主( 山名祐豊(やまなすけとよ)) の重臣秋葉綱典(あきばつなのり)の次男として生まれています。
1603年( 30歳) 、南宋寺陽春庵の一凍紹滴(いっとうしょうてき)に師事。
沢庵と紹滴は相性が良かったのでしょう。
当時も今も( 現代の方が多いかもしれませんが) 、坊主になっても、食い扶持(ぶち)や世間体、地位や名誉にこだわる輩(やから)もいれば、修行一筋という人物もいます。
一凍紹滴と沢庵は後者の方で、世のしがらみがウザイといいますか、あまり好みではなかった二人は気が合い、紹滴の厳しい指導の下で、沢庵は水を得た魚のように存分に修行ができたのです。
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沢庵はそのまま30歳で認可を授(さず)けられ、澤庵宗彭(そうほう)と名乗ることを許されました。
1588年・祖心尼(岩手城主の娘) 生まれる
本名「 おなあ」
後に大事な働きをするので、登場しますが、しばらくはあまり動きがありません。
本来「 おなあ」 という名ですが、現在有名なのは祖心尼(そしんに)なので、このまま祖心尼(そしんに)で通します。
おおよそのこれからの経歴です。
1593年 ・加賀の前田家で突然離縁される
1604〜1608年・京都妙心寺で禅を習う
会津に行って町野と再婚( 娘の「 おたあ」 生む)
1628年・一家は江戸へ出る
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叔母の春日局から補佐役依頼
孫娘を家光の側室とする
結構波乱万丈ですが、 武蔵と直接はあまり関わらないので、端折(はしょ)っていきます。( ただ沢庵を通して、少し関係がありました)
1593〜4年・妙心寺で禅を学ぶ
元々勉強家ですが、妙心寺あたりから勉学に励んでいる。
江戸に出て春日の局から補佐を頼まれてからの祖心尼は、特に家光に気に入られています。
祖心尼の性格はサッパリとしていて男勝りで、どこか頼れる女性という感じで、家光の女性観合っていました。
家光は沢庵(たくあん)柳生宗矩(むねのり)といった優れた教師の下で様々な薫陶(くんとう)を受けていきますが、祖心尼の優しさや包容力は、家光 が幼少時に受けた精神的な傷の多くを癒(いや)してくれています。
1596年・武蔵14才・初の勝負・決闘・新当流有馬喜兵衛
( 詳細はこの後110ページあたりで書いておきます)
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1600年・沢庵27歳・関ヶ原の闘い( 武蔵18歳・東軍で出ている)
ガラシア没( 37歳)細川忠興の妻( 本名・玉)
関ヶ原の闘いで、西軍の石田三成が細川忠興(ただおき)の嫁のガラシアを人質に取ろうとしたところ、彼女は自決しています( 自決はキリスト教ではダメなので、配下の者に介錯してもらっています。
この時残した辞世の句に、
↓元文
「 散利奴遍喜 時知り手古曽 世の中乃 花手花菜連 人茂人奈禮」
↓訳すと
「 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
ガラシアが亡くなった屋敷の井戸跡にある石碑
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旦那の忠興(ただおき)には溺愛(できあい)され、そこそこの地位にあり、何不自由なく生活できている身分で、人質になるだけで、殺されるわけでもないのに、
「 ガラシアとして死ぬべき時は心得ている」
その様もカッコいいですが、この歌も見事ですね。
ですので、あえてこの武蔵の本の中に入れ込んでおきました。
「 死ぬべき時を心得ている」 とは、
「 死ぬ時を知っている」
つまり
「 いつ死ぬかは自分が決める」
という事です。
それは「 いつでも自決できる」 という覚悟ではありますが、
「 その場限りの安易な決断」 ではなく、
「 常日頃から死を覚悟した生き方」 をしていてこその
「 死ぬべき時を心得ている」 なのです。
この時代の人は、常に「 死」 と隣り合わせで生きていました。
戦場(いくさば)はもちろん、普段の巷(ちまた)でも死体の一つや二つは普通に転がっていたのです。
かつて宇宙全史のワークで、「 禅坊主より、兵法者の方に覚醒が深いものがある」 という意味のことを書いていたことがあります。
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そこには常に「 死」 と対峙(たいじ)して生きているかどうかが、覚醒の深度に大きな影響を与えているのは否(いな)めないところでしょう。
そういう意味でもガラシアも戦国武将の妻としての覚悟は持っていたというところでしょうか。
それにしても昔の人は、なくなる前に見事な辞世の句を残しますね。
人生の締めくくりのセレモニーとしては、とても優れた日本文化だと思います。
1601年・柳生宗矩(むねのり)・徳川秀忠の剣術指南役になる
関ヶ原の戦いを経て、ここで柳生家を再考している。
1602年・沢庵覚醒
気が熟していたということもありますが、その前の1602年( 数えの年で) 30歳の時に沢庵は覚醒しています( 史実では「 30歳で大悟した」 とありますが、本人に確認すると「 数え年の30歳」 という事なので29歳としました。
沢庵の覚醒は「 緩やかな覚醒」 で、禅で言うところの「 漸悟(ぜんご)」 でした。
通常禅ではこの「 漸悟」 と「 頓悟(とんご)」 という覚醒パターンがあり、字の通り頓悟は突然覚醒してしまう事を言います。
「 漸悟」 は穏やかに覚醒の波が押し寄せてきて、通常1週間から1ヶ月半ほどの時間をかけて、魂魄(こんぱく)体の変化と肉体を徐々に馴染ませつつ( 最後の浄化をしつつ) 覚醒へと導いていきます( 1年以上か
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かる場合もあります) 。
頓悟はいきなり覚醒バージョンに入りますから、よほど期が満ちていないと色々バグが出てしまう可能性を残しています。
沢庵の場合は本体が「 魔導師」 ですので、どこに残滓(ざんし)が隠れているか危惧(きぐ)がありましたから漸悟という形をとっていました。
この時の覚醒は宇宙全史で言うところの「 完全覚醒」からは程遠いところにありました。
沢庵
「 完全覚醒は未だ知る由(よし)もなく」
「 されど入り口であるという意識はあり」
「 道半(なか)ばは自覚していた」
それまでも沢庵はある程度 人の気がわかるといいますか、ぼんやりと見えてはいたのですが、ここからは「 人格」 「 力量」 「 運命線」 なども含めて適格に見えるようになっています。
しかしおそらく沢庵の性格だと思われますが、それをひけらかしたり、強調したりするというパフォーマンスはほとんどやっていません。
それまで通りの生き方を貫くところは、師一凍紹滴(いっとうしょうてき)に気に入られたところでもありました。
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1602年・沢庵(29歳 ) と武蔵( 20歳) 1回目の邂逅
沢庵が武蔵と初めて出会ったのは、覚醒直後の1602年、自作の歌の講評をしてもらいに細川幽斎に会いに行く時の道端でした。
( 長岡藤孝の雅号が幽斎・1流の文化人で武将・1610年77歳で没) 。
細川家になったのは家を長男・忠興に譲った( 本能寺の変1582年) 以降・この時から細川幽斎と名乗っている。
( 年代特定がややこしくて、史実では1603年になっているものもありますが、沢庵を基準にしますと1602年になります・本書ではそのあたりはどちらでもいいので、沢庵主体で話を進めます)
武蔵も吉岡一門と闘う前で、沢庵が道端で腰を下ろして、菅笠(すげがさ)を少しずらして歩いて行く武蔵をチラリと見上げています。
その時の武蔵に、
「 凶相の中にも救いを求めるうぶさ」 があった。 それが沢庵の関心を惹(ひ)いています。
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当時は節操もマナーもなく「 とにかく人を殺して名を上げたい」 というのが当たり前でしたから、兵法修行者のほとんどは「 凶相」 の持ち主でした。
今でこそ映画やドラマでは、それなりに「 立ち合い」 や「 試合」 という形をとって決闘をしていますが、実戦では「 勝ったもの勝ち」 というのが原則でした。
何なら「 後ろから黙って切り付ける」 もありでした。
いってみれば「 喧嘩」 のようなもので、「 どんな形で勝っても、勝ちは勝ち」 それが兵法者の正義でした。
それを「 剣法」 「 兵法」 というカテゴリーに格上げしたのが柳生でした。
もちろんそれ以前から剣聖といわれる人たちや、心ある剣術家はいましたが、徳川幕府というお墨付きをバックにキチンとした様式に兵法を仕上げています。
そしてそこから外れたのが武蔵だったのですが、その詳細は「 巌流島の闘い」 の後解説していきます。
そんな兵法修行者の一人だった武蔵の顔に「 凶相の中にも救いを求めるうぶさ」 があるのを見た沢庵は、「 単なる兵法者ではない」 と喝破(かっぱ)し、後々まで武蔵のフォローをしています。
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しかしこの時不覚にも武蔵の方は沢庵に気づいていませんでした。
次に沢庵と出会う時まで武蔵は幾度かの話し合いを経験しますが、巌流島の直前の沢庵との邂逅( 1611年) がなければ、武蔵は小次郎に負けていたかもしれません。
沢庵も覚醒 直後ではありましたが、この時は「 面白い男だな」 というくらいの感じでそれが武蔵とは 認識していませんでした。
1603年・家康・征夷大将軍になる
1604年・祖心尼・離縁され 妙心寺へ
妙心寺・日本一大きな禅寺です
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1604年・武蔵( 22歳)
吉岡一門と決闘
京の吉岡一門との闘いは本でもネットでも出ていまして、概(おおむ)ねそんなものですから、ここでは省いておきます。
ただその前後しての武蔵の所在に大事なところがありましたので、記しておきます。
それが武蔵は左利きだったという事です。 史実からは中々明確なことは検証できないところですが、この基本的な肉体的特徴を元に、検証しなおしますと、色々なことが明確になってくると思います。
それはこれからの学者さんや研究者にお任せします。
ただ左利きであっても、昔からの習慣で、武士は左右どちら利きであろうと、帯刀は左と決まっていました( 左利きにはかなり不都合ですが) 。
武蔵ならそんな習慣など無視するんじゃないかと思っていましたが、ちゃんと左帯刀バージョンでした。
そうしますといきなり近接から切り付けられたときはどうしていたのでしょうか。
見てみますと、そういう場合でも右手に短刀で、それで何とかしています。
というかそれで充分だったようです。
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そしてこれは全く史実に残っていませんが、吉岡一門との決闘の時は、大分用意周到に準備はしていたようでした。
目立つのは 背中に長差しを装備していたということです( 腰にもしています) 。
まるで佐々木小次郎のようですが、 左で抜きやすいように、右を上にして斜めに装備しています。
他にも色々準備は怠らず、この辺りは、ドン・ファン流の「 戦士の心得」 をそのまま実行していた感じです。
「 背中に帯刀」 というのは、しょっちゅうやっている訳ではなく、充分に準備期間がある対複数の決闘時などに装備していました。 もう一つは 武蔵の女性関係です。
武蔵の女性関係
この辺りで武蔵の女性関係に触れておきます。
まずよくいわれているような「 おつう」 などの特定の女性というのはいませんでした。
ただ14、5歳頃から、自らの性処理のためにたまに岡場所に行っています。
( 岡場所=正規の遊郭ではない廓(くるわ) )
そこで下働きの女性( 12歳くらい) や遊女に少し気を惹かれています。
ただそんなに深くは関わりを持たず、何人かと関係を持
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ったり、話すだけといった感じでした。
女性にはあまり執着はなく、好みが難しくて、ロリ系の「 庇護(ひご)してやりたい」 という欲もあれば、母性を感じさせる尼さんなどに淡い
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あこがれを持ったりしています。
そして丁度その頃( 1607年くらい) 祖心尼(そしんに)( おなあ) が京の妙心寺に来ていました。
それが沢庵に伴われ、武蔵と会っています。
この時武蔵は祖心尼とはあまり話さなかったのですが、祖心尼の包み込むような大らかな母性に微かな思慕(しぼ)の念を抱いていました( 祖心尼は江戸城勤めになったとき、お気に入りの沢庵を家光に紹介しています・武蔵のことも少し告げ口しています) 。
後述しますが、武蔵は吉野太夫( 2代目) という花魁(おいらん)とも会っています( しかし一般に流布されている「 吉岡一門との決闘」 の直後ではなく、もっとずっと後になります・決闘の後では吉野太夫が2歳の時に武蔵と出会っていることになります) 。
それらが武蔵の一種のあこがれの女性像になっていましたが、求めるところがロリもあれば母性があったり、明晰性と教養という要素も大きかったようで、彼の女性に対する審美眼(しんびがん)は複雑でした。
1605年・秀忠(ひでただ)徳川将軍になる
家康隠居( 大御所になる)
徳川秀忠( 2代目将軍)
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1607年・沢庵( 34歳) 大徳寺の住職に任命される
一言で大徳寺といっても、結構大きくて、色んなお寺を含んでいます( 基本臨済宗の禅寺です)
しかし( 沢庵の性格で) すぐに退山してしまいます。 大きな寺の管理運営などは( 真面目でソコソコこなしますが) 好きではなく、面倒なようでした。
そもそも上に立って、色々指導するということが苦手で、ここから1620年( 元和6年) に故郷の出石(いずし)に戻るまでは、あちこちに出向いています。
いわゆる放浪の旅ですが、旅装束で全国各地を巡るという感じではなく、今日は叡山(えいざん)まで足を延ばし、明日は金剛山近辺でウロウロするといったような「 行方定めぬ沢庵さん」 という感じです。
沢庵は、人間観察といいますか、そういうシーンの探求が好きで、今回覚醒してしまったものですから、そっちに余計に傾倒してしまっています。
つまり道を歩いていても「 あの男は運気のどん底にいる」 「 あの娘は家出をしようとしている」 「 あれは対人関係で悩んでおるな」 などがありありと分かってしまうのです。
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それまでも明晰性といいますか、頭は良かった沢庵でしたが、そこに完全ではないにしろ「 覚醒」 の力が加わったので、日本中をあちこち旅して( 主に) 人間観察をしながら旅を続けています。
特に侍や浪人などを観るのが好きで、自分は坊主なのに、剣術の力量を計るのが得意で、日がな道端に座って、道行く侍たちを眺めては「 出来るな」 とか「 まだまだじゃ」 などと見ています。
これが性に合ったといいますか、とにかく面白かったようで、おそらく沢庵独自の禅のメソッドになっていたのではないかと思われます。
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そういう経験は、後に幕府の剣術指南役・柳生宗則(むねのり)や武蔵などとの邂逅(かいこう)時にいろいろ アドバイスをしたり、時には指導したりする参考にしています。
特に武蔵や宗矩は大いに感化を受け、彼らのその後の剣術修行や指導書の内容に影響を与えていました( 武蔵の「 五輪の書」 や宗矩の「 兵法家伝書」 は、共に沢庵からの情報( 指導) の影響を大きく受けているものになります) 。
1607年・武蔵(25歳) ・沢庵( 34歳) との2回目の邂逅
沢庵( 34歳) と武蔵( 25歳) は2度目の邂逅(かいこう)を果たしています。
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夏の暑い日で、場所は京都の郊外で、最初の出会いと同じく( 場所は違いますが) 沢庵が幽斎に会いに行く道筋でした( 幽斎=本来「 細川幽斎」 で、途中で事情があり雅号を「 幽斎」 として坊主にしています・その後もアートの世界で活躍したので、細川幽斎名が通り名になっています) 。
武蔵は 吉岡一門との戦いが終わり、そこそこ 名を上げていた時で、沢庵も( 覚醒していましたので) それが武蔵だと瞬時に分かっています。
武蔵は( 小次郎とやり方は違いますが) 実践経験の中で「 気」 を磨く精度を上げていました。
それで目の前の坊主が「 只者ではない」 と認識しています。
ここで沢庵は「 よけい計な事」 をしています。 前回の邂逅で、武蔵の中に「 凶相の中にも救いを求めるうぶさ」 を認めていた沢庵は、
すれ違う寸前、武蔵は相手が「 ただの坊主ではないが正体不明」 故に、無意識のうちに一定の臨戦態勢に入っていました。
まさにその時、沢庵は普通にすれ違うのではなく、姿勢を半回転( もう少し小さい角度ですが) ほど瞬間ズレています。
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これに武蔵は反応していますが、持っていた鉄扇を落としてしまいます。
相手が武士なら即座に抜刀していましたが、坊主なので躊躇(ちゅうちょ)がありました。
それが刀を抜くという動作と鉄扇を維持するという動作の両立がうまくいかなくて、鉄扇を落としたのです。 それを油断というにはあまりに些細(ささい)な「 逡巡(しゅんじゅん)」 でした。
すれ違った後、お互い暫(しば)し向き合っていると、
沢庵が
「 クロミ( 今で言う栗のこと) が棘(とげ)の落つるが如(ごと)し」
「 何故(なにゆえ)扇を落とすのか」
と謡(うた)うように問うています。
武蔵は扇子を落としてしまった事に少し 動揺していましたが「 いきなり坊主が喋りかけて来た」 という事実にも動揺しています。
しばし沢庵の言葉を反芻(はんすう)している内に、自らを強く恥じています。
そして黙ったまま沢庵をじっと睨(にら)んでいました。
普通の人間なら、武蔵に睨まれたらたちまち身も心もすくんでしまいますが、
沢庵「 おぬしの闘気(とうき)は溢(あふ)れきって、こぼれんばかり」
「 落ちた鉄扇(てっせん)は己(おの)棘(とげ)( エゴ)」
「 そのままでは自らを焼き尽くしてしまう」
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「 気を懐柔(コントロール)することを覚えよ」
「 活殺自在こそが剣の極意なり」
とか何とか言っております。
あの武蔵がそれを黙って聞いていたのです。
おそらく武蔵の機が至っていたのでしょう( 機が熟すともいう) 。
自分でもどうにもならない身内で荒れ狂う獣(けもの)の気を、沢庵に指摘され「 ああ、そうなんだ」と合点しています。
このタイミングは達人同士でないとわからない域でやり取りされていますが、実際この邂逅(かいこう)がなければ、巌流島での闘いの結果は違っていたかも知れません。
この後沢庵は何事もなかったかのように幽斎に会い、自分の作った歌を見てもらっています。
戦国期を武者として駆け抜け、豪傑の異名を取りながらも、和歌(アート)の世界でも名を馳(は)せた幽斎は、息子の忠興(ただおき)を残し、2年後の77歳、京の自宅で亡くなっています。
そしてその忠興( 細川忠興・小倉藩主) が、巌流島の決闘の裏で動いていたのです。
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1609年沢庵(36歳) ・武蔵( 27歳) ③
小倉遊説(ゆうぜい)
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沢庵の遊説(ゆうぜい)「 基本パターン」
①道端で他の土地で聞いたこと( 伝承や一寸した事件など) を披露している( 「 ここに来る途中、二つ山 向こうの袈裟丸(けさまる)峠に古い野井戸があってな、昨晩はそのそばで野宿したんじゃ。 その夜は曇っていて月も見えず、ウトウトと眠りかけた時、それまで聞こえてきた虫の声がピタッと止まったんじゃ。 すると真っ暗な中から・・・」 とこんな感じで、これはいわゆる掴(つか)みですが、こうした各地の身近な話題で聴衆を引き付けている
②盛り上がってくると、そこから仏法の教えを混ぜて、庶民にも分かるようにかみ砕いた禅の教えを説く
③そうすると話し方が独特で上手なので、聞いている聴衆の中から「 おや沢庵どのではないですか」 とたいがい坊主か武家らしい者が声をかけて来る
④それで招かれて一宿一飯のお世話になる
⑤そういう事がなくても平気で野宿している( もちろん普通に宿に泊まったりもしています)
大体このパターンで日本中あちこち気の向くまま歩いています。
この時もどこかの家臣が声をかけてきて屋敷に案内しています。
その武士は、小倉藩主家老沼田の配下のものでした。
沢庵が先日から城下に入っているとの噂を聞いた沼田が、城主の忠興(ただおき)に告げ口すると忠興は沢庵を知っていますから迎えに行かせています。
翌年忠明は家康に会うため上洛(じょうらく)するにあたって、ちょうどよい情報源として沢庵に会いたかったようです。
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沢庵は隠密だった?
ここで沢庵の秘密を明かしておきます。
沢庵といえば、 一休さんのように自由奔放な禅の坊主という印象がありますが、実態は隠密でした。
あちこち放浪していたのは、各地の情報を収集するためで、坊主という身分は、ちゃんとした隠密より警戒されにくいということがあったのです。
こう書きますと何やら時代劇の小説のようになりますが、確かに隠密 のような事はしていましたが、最初から意図してそういう業務を引き受けていたということではなかったようです。
2代目将軍秀忠(ひでただ)の時代は、そういう活動はしていませんが、次第に柳生宗則(むねのり)と仲が良くなってゆき、彼と剣や禅の話の中で、放浪している各地の話をしている
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内になんとなく隠密っぽい情報を交換しています( つまり各藩の財政や人事などの内部情報ですね) それが本格的になっていくのは、徳川家光との関係性が強化され出した1620年頃からで、家光、宗矩、沢庵とが親密になっていった過程でもありました。 それでも家光や宗矩から
「 何処其処(どこそこ)の藩の状況を探って来てね」 という打診が
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あるわけではなく、たまたま沢庵が行ったところからの情報で「 なるほどそうなのか」 くらいの感触でおさめています。
沢庵は野良猫のような性格で、縛り付けておくことは出来ないと宗則(むねのり)も家光もよく知っていますから強制はしていません。
主従関係は厳としたものがありますが、家 光が少し変わった殿様で、宗矩や沢庵を精神的「 師」 として見ていますが、内心は友人という感じでした。
祖心尼(そしんに)に対してもそんな感じでしょうか。
家光は情が深く、自分が気に入った人物には徹底して「 お気に入り」 マークをつけます。
また当時はあまり理解されていませんが、封建体制ではあまり馴染まない近代的な感覚を持っていた人物でした。
そのため普段から
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「 少し頭がおかしいのでは」 と思われる節がありました。
家光のそうした面を理解してくれる自由人の沢庵が好きで、宗矩(むねのり)や祖心尼(そしんに)も体制サイドにありながらも家光のよき理解者でした。
この時から2年後に武蔵と小次郎は巌流島で戦うのですが、沢庵はこの時期に小倉に来ています。
そして家老の沼田に屋敷に招かれて、藩主の細川忠興(ただおき)と会い、忠興に幕府の事や家光のことを少し話しています( もちろん小倉藩の内情もうまく探っています) 。
その日は沼田邸に泊まっていますが、翌日もう2、3日逗留していくように勧められますが、用があると沼田の屋敷を辞した後、城下の道場巡りをしています。
この時、川べりにある、人だかりが出来ている少し大きな道場で、佐々木小次郎を見かけています。
縦格子の窓から大勢の町娘が覗いていて、キャアキャア騒いでいて、「 小次郎さまぁ」 と叫んでいますからすぐに分かりました。
噂には聞いていましたが、小次郎を見るのは初めてです。 剣術 好きでしたので、巷(ちまた)で「 武蔵小次郎か」
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どちらが強いのかという風評には関心を持っていました。
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そこで 小次郎を観察しています
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「 気が澄んでいる」
第一印象がそれでした。
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武蔵とは全然違いました。
若いのに迷いがなく太刀筋も素直で、
それでいて力強く、技量もほぼ完成されています。
沢庵は名人クラスの実力だと驚いています。
「 ( 宗矩(むねのり)殿では勝てないかも) 」
そう思ったとき、
玄関越しに小次郎が
沢庵の視線に気づきます。
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スキがあると思い
しめたと
打ち込むお弟子さん
だが直後
小次郎に
叩きのめされている
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それで沢庵は苦笑いをして去っています。
小次郎は何かいつもと違う気配に外を見ましたが、見知らぬ坊主がニヤつきながら去っていくのを見ただけでした。
いいものを見たという感じで、そのあと沢庵はいくつか道場を巡っていますが、」4つ目で武蔵のいる道場に行き着いています。
小倉藩の剣術師範のいる道場で、武蔵は家老沼田の食客という形で師範代をしていました。
こちらの道場には女子供はいなくて、町人と職人風の男たちが何人か立ち止まって見ていただけでした。
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武蔵は何番か稽古をつけた後で、小さな庭の井戸端で水を飲んでいるところに沢庵が通りかかっています。
竹の垣根越しに武蔵は沢庵を見つけ、沢庵も武蔵に気づいています。
お
はれ
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武蔵が微かにペコリと頭を下げると
「 今度寺に寄りなさい」 とだけ言って去っていきます。
来んさい
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武蔵はポカンと沢庵の去った方を見ていましたが、
すぐに持っていた柄杓(ひしゃく)を置いて、急いで沢庵の後を追います。
楠(くすのき)の大木の下に地蔵尊のある辻まで追いかけましたが、すでに沢庵の姿はどこにもなく、しばらく木の下で立っていましたが、木の上でカラスが鳴くと、腑に落ちない面持ちで戻っていきました。
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1611年・4回目の邂逅
武蔵( 29歳) ・沢庵( 38歳)
巌流島前年「 大仙院」
武蔵は、小次郎の評判がどんどん上がっていくのを目の当たりにしています。
いつか小次郎と闘うことになると思っていますが、武蔵の野性的な勘は「 少し足りない」 と感じていました。
焦ってはいないのですが、それを道場などの修練や野外の実戦で補(おぎな)おうとしても、どうしても納得できない部分があったのです。
翌年 巌流島の戦いの前年、沢庵は大仙院(だいせんいん)に留まり、のんびりと和歌など詠(よ)んでいましたが、 昨年の小倉での沢庵の誘いに乗って武蔵が訪ねて来ます。 この時は沢庵もあまり話すこともなく「 おゝ来たか」 くらいであまり語らずに茶を出しています。
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武蔵は正式な形では飲んだことはないですが、
大きな寺や武家屋敷の茶室で何度か振る舞われたことがありました。
しかしその時も、作法も何もなく飲んでいました。
この時は沢庵に簡単な作法を教わり、飲み終わって落ち着くと、利休も眺めたであろう、小ぢんまりとした枯山水の庭に面したところで、ひたすら座禅をさせられています。
ほぼ放ったらかしです。
この間沢庵と武蔵の中で( 無言ながらも) 様々なやり取りがあるのですが、その場にいないとわかってもらえそうもないので割愛しておきます。
1つだけ参考までに・・・
武蔵がどうしても尋ねたかった事を沢庵に聞いています。
「 無とは何でしょうか」
沢庵は即座に「 在るようで無く、無いようで在る」
武蔵「 「 在る」 でもなく「 無い」 でもないものが「 無」 なのでしょうか」
沢庵「 喝!」
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正に禅問答ですが、沢庵自身もこの頃の境涯は進んでいまして、完全覚醒の一歩手前「 実存」 を垣間見るところまでいっていました( ちょうど古川がインドに行った時の第一覚醒の境涯に似ています) 。
江戸初期の禅宗にあっても「 無」 の公案はメインテーマでした。
武蔵は自らの欠点の修正のため色々探求していますが、どこまで行っても最終的に「 無」 という単語に収束しています。
それは剣術修行においても、心の鍛錬においても同じく遭遇するテーマであったのですが、誰からも何処からもその的確( 実践的な) 回答が得られていませんでした( これは後に出てくる 柳生宗矩(むねのり) も、同じく取り組んでいたテーマになります・宗矩の場合は父親の石舟斎が「 陰の流れ」 を「 新陰流」 とした剣術の研鑽過程でぶち当たっています・後で説明します)
そこで武蔵は沢庵を訪ねて来たのです。
沢庵は武蔵の反応を見て、その境涯が未だ至っていないことを見抜き、別な領域に誘導しています。
武蔵は沢庵との「 無問答」 の中で「 喝!」 と一蹴(いっしゅう)されたことで行き詰まっています。
そこから数時間集中して考えていますが、どうにも解(ほど)けないようでした。
「 無」 の公案に取り組むときに誰しもが陥る罠は「 思考で解き明かそう」 とすることです。
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「 在り」 でもなく「 無」 でもないものなど、理屈でどうにかなる命題ではありません。
しかしまずそこに至らないと、次の段階に入っていかないのが人の性なのでしょうか。
「 そこに至る」 というのは「 理屈ではダメなんだ」 と理解する・・・といいますか、「 無理なんだ」 と絶望に近い思いに至ることです。
まずはそこに行き着かないと、いつまでも頭の中でグルグル試行錯誤してしまっているのです。
「 理屈を超えた」 感覚に没入するために、沢庵は「 無と在」 の公案を武蔵に与えていました。
禅の公案は、その「 頭の中のグルグル」 から離脱することを目的としたメソッドなのです。
それはある意味、「 どうにもならない」 「 煮詰まった」 飽和状態をいいます。
さて武蔵が煮詰まった頃 、沢庵が話しかけます。
沢庵「 おぬしは剣術師じゃ、棘(とげ)がなくては生きてはいけぬ」
「 しかし今その棘は自らを刺す棘になっておる」
武蔵「 ある程度はコントロール出来るのですが」
沢庵「 それは相手が弱いからじゃ」
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文献ではいいように書かれてありますが、
実際は逃避行を重ねながら強奪、強姦、殺人を
犯していった山賊集団に近い者たちでした
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「 同じ技量ならどちらが勝つか」
「 何が勝ちに結びつく要素か」
沢庵「 激流の中にいれば、ただ流されるだけ」
「 瀬が上に立てば己(おの)が上に立つ( 激流の上に立てば、流れをコントロールできる」
だがその言葉も理屈に過ぎなかった。
しかしそれが呼び水になり、この後、武蔵は座禅の中で、「 己(おのれ)」 の「 激流」 を観ています。 ( 「 己(おのれ)の激流」 =表面的な心の思いだけではなく、深層意識の「 暗い思い」 ・それこそが表面意識が、どうにもできない枷(かせ)になっているのです・武蔵の場合はこの冒頭で書いておいた「 モーゼとの出エジプト記」 のこと( あるいはそれ以前) で、人間各人の奥底に潜む暗部を指します) 。2日目の夜半に武蔵は何事かを悟ったかのように、そのまま別れも告げずに大仙院を去り、小倉に戻っています。
もちろん沢庵は武蔵の身に何が起きたのかは了解(りょうげ)していました。
普段は声を出してはあまり笑わない沢庵が、夜の闇の中で 笑い出しています。
3年前の武蔵の身に起きた感覚が結実したのを確認していました。
簡単な図式にしますと
●己の鞍部を知る
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出エジプトのメンバーたち
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●知ることで俯瞰(ふかん)出来る( 俯瞰できずに「 闇」 に負けてしまうものもいる・これが多い)
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●暗部と対面して、少しずつ昇華していく
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●そうするとエゴを制御しやすくなっていく
( 表面意識が潜在意識をコントロールする)
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●次第に表面 意識が静かになっていく( エゴが薄くなる)
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●平静さ( 冷静さ) を手に入れる
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●気( エネルギー) の制御
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●間合いの取り方が分かるこれで武蔵は小次郎とほぼ対等に戦えるスキルを心身共に身につけています。
これは一種の覚醒ですが、この時はまだ「 剣の極意」 ともいえる本当の覚醒は身につけていませんでした。
それが「 巌流島の闘い」 で、小次郎と掛け合う事で、二人とも( 特に武蔵が) 会得しています( 小次郎は既に持っていました) 。
それが「 遊び」 「 うきうき感」 等で・・・武蔵の限界だった「 固さ」 「 頑固さ」 等の形質の解消になっています。
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しかし後々まで武蔵は「 無」 の本質が分からなかったようでした。
それを何とかロジックで解明しようとして、自ら工夫した剣技や心の持ち様を書き残してはいますが( 「 五輪の書」 など) 、あくまでも現象界における有様(ありよう)から抜け出ることはできていません。
現在の巌流島
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