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小次郎
●気がついたら皆なついていた・( 小次郎が)猫みたいな感じ
●みんなが極意を教えたがる
●泥臭くない
●努力しているがあまりその努力の跡後を見せない
●実際の闘いの中でも得るものはあったが、大自然の中から自ずと学ぶことが多い
武蔵
●武蔵は自分から盗む
●触れたら噛まれる狂犬のような感じ
●自助努力に重きを置く
●一個〜の実戦の中で、剣の技術を学んでいる
●小次郎のように大自然から学ぶという才能はなかったが、学問としてキチンと収めている
●唯一師がいるとしたらそれは「 沢庵」 だった
人柄の差はありましたが、こんな感じでまるで対照的な二人でした
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小さな時からあちこち出歩く 放浪癖はあったのですが、大きくなるにつれ次第に遠方にまで足を延ばすことになります。
拠点は山口県側から九州の小倉あたりに移っていて、小倉城下の剣術道場に出入りしていました。
現代では剣術道場の歴史は曖昧で、主に江戸中期以降から注目されています。
しかし実際はかなり前から存在していて、いわゆる「 道場」 という形もありましたが、現在の「 塾」 のようなおもむきで、様々な「 学び」 をそこでレクチャーしています。
武蔵の頃は、戦国の世も終わりに近くなり、腕に覚えはあるものの、仕官先を失った武士崩れがたくさんいました。
その一部が道場を開き、糊口(ここう)を凌いでいるケースが多々ありました。
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小倉城下には常時20〜30の道場があり、様々な流派が乱立しています。
中には剣術だけではなく、護身術や読み書き、行儀作法を教える寺子屋のような場所もあり、そこも道場に含まれています。
小倉の町にあった道場の中でも大きな力を持った所は五ケ所で武蔵や小次郎も出入りして
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いますが、不思議と二人がかち合うという事はなかったのです。
これは二人の守護霊が仕込んでいまして、ベストなタイミングで闘わせたかったという事らしいです。
初めは道場やぶりとまではいかない感じで、ふらりと出向いて立ち合いを望んでいます。
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小次郎の外見がナヨナヨして細いので「 それでは叩き直してやる」 位の勢いで道場の弟子たちに引きずり込まれていますが、たちまちみんなコテンパンにやられています。
そこで師範が出てくるのですが、そこでは適当に手合いをかわして引き分けています。
師範の顔を立てるといいますか、一寸した駆け引きは子供時代にいろんな経験を重ねていますから心得ています。 中には気の荒い師範 もいますが、厄介なところは早々に引き上げています。
気のあった師範のいる道場では「 食客」 という身分で出入りしていますが、そういう道場が幾つかあったようでした。
江戸期に入ると千葉道場という有名なシーンが思い浮かぶのですが、戦国から江戸初期のこの時代に「 剣術道場」 のイメージがなかなか湧きませんでした。
しかし実際に見てみますと、江戸期のように、道場の格子窓から中を覗いている人たちがたくさんいます。
覗いている中には、町人や無人もいますが、多いのは町娘たちです。
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町娘が多いのは、小次郎がその道場にいるからで、他の道場ではあまりそういう現象は見られません。
つまり小次郎は「 モテた」 のです。
後ほど 登場する武蔵とは違い、とにかく小次郎の女性人気は異常でした。
背が高く痩せマッチョで、ハンサムで物腰が柔らかく( しかしやる時) 、クールで、当時の女性にとって、あまり周囲にはいないような存在だったのです。
大体
「 武士とは・・・」 「 そもそも武士道とは」 という肩ひじ張った感じの男たちばかりで、遊び人と迄はいかないですが、やさ男で自由人風の小次郎はとにかくもてていました。
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しかし小次郎は女たらしという事ではなく、剣と同じように自然体のまま、本能のまま生きています。
当時小次郎には常宿と言いますか、寝泊まりする決まったところがなかったのですが、宿に不自由することはなく、ほぼ女性のところに転がり込んでいるか、道場の食客として屋敷で寝泊まりしていました。
道場主の中には、小次郎の事情をある程度察していたような人もいて、本名の槇原を名乗らなくても了解している節がありました。
この頃小次郎は、すでに「 佐々木小次郎」 という通り名で呼ばれていました。
なぜ「 佐々木」 になったのかは不明で、いつの間にか、世間一般に「 それが呼びやすい」 「 名前の小次郎と合っている」 というくらいの感じで流布していたようです。
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1610年・小次郎( 23歳) 沢庵との邂逅
沢庵と小次郎は一度だけ会っています。
巌流島の闘いの2年前の一瞬だけでしたが、お互いを認識はしていました。
この件(くだり)は後ほど詳しくお話しします。
小次郎はとにかく女性たちが 積極的で放っておかないのです( 九州の女性という事もあるのでしょうか) 。
そして・・・実は巌流島の決闘の遠因はここにあったのです( それが主要な原因ということではなく、発端となった事件がそこにありました) 。
基本小次郎は「 剣の道に生きる」 という硬派でしたので、何度もいいますが格段女たらし という事ではありません。
しかし向こうが寄って来るので「 来るものは拒まず」 という自然体で付き合っています。
そして「 挑まれれば切る」 というスタンスもありました。
言ってみれば「 女性にはもてたが、求めてはいなかった」 「 勝負も挑まれれば相手をする」 が「 あえて自分からはいかない」 というカッコいい感じです( うらやましいですね) 。
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そんなとき女性の一人にいつも苦虫をつぶしたような( あまり美人とは言い難い) トウのたった女性がおりました( 「 トウがたつ」 は「 御祭船」 第一巻のp248を参照してください) 。
小次郎は「 来るものは拒まず」 「 好き嫌いはいいません」 の姿勢ですから、関係を持ってしまいます( 色んな生活必需品を何かと貢(みつ)いでくれていました・中には高額なものもあったようです) 。
ところがこの女性は道場主の娘でした。
道場主は小倉藩の藩士で、家老沼田の部下でもありました。 (  小次郎の中にも「 あわよくばいい思いできるかも」 という考えも少しはあったようです)
この時彼女は妊娠していませんが、小次郎と一緒にいるところを目撃されて周りの者から道場主に告げ口をされています。
自ずとそれは上司の家老の沼田の耳にも入っています。
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小倉藩
こうして武蔵と小次郎の運命は九州サイドの小倉藩を中心に回っていきます。
小倉近辺では武蔵と次郎の噂が飛び交っていました。
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たいがいは「 どちらが強いのか」 というもので、特に小次郎は、城下の道場で師範代理のようなことをしていましたから有名でした(  正式ではない半雇用という感じでした) 。
先ほども書きましたが、道場の周りでは 町娘たちがワイワイきゃあきゃあ鈴なりなっています(  現代でも芸能人の「 出待ち」 などありますが、この時はもっとすごかったようです) 。 とにかく他に娯楽というものがあまりない時代でした。
また当時の道場 というところは出会いの場でもありました。
弟子の兄弟姉妹や一族郎党など、結構自由に出入りしていたようです。
今はあまり知られていませんが、寄り合い所とでもいいますか、男女が集う場所でもあったのです、
言ってみれば一種の「 サロン」 のような場だったのかも知れません。
そこで人気をとられてしまった道場の若い門人などは「 ちっ」 という感じか、逆に男性であっても小次郎ファンになってしまうかのどちらかでした。
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巷(ちまた)がそこまで盛り上がっていますと、お城の上層にも色々噂が流れています。
中には真面目な剣の理解者もいましたが、大体は興味本位で「 どちらが強いのか」 という野次馬根性がほとんどでした。
そういう状況の中、先ほどお話ししたように、小倉藩の家老沼田の家来の娘が小次郎と関係を持ってしまいます。
そしてそれが
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バレてしまったのです。
さてここからが少しややこしい事情になります。
小倉藩というのは九州にありながら大藩の一つで当時は細川忠興(ただおき)が治めていました。
奥さんは明智光秀の娘の玉(たま)( 洗礼名はガラシアで、こちらの方が有名でしょう) 。
大藩にしたのは父親の細川幽斎(ゆうさい)で、歌道、茶道の才能もあり、戦国の世では割と人望のある殿さまでした。
その子の忠興は、若い頃は戦場ではガンガン・イケイケの戦国武者という感じで、妻になったガラシアとは、お互いの価値観の違いから、あまりうまくいっていなかったようです。
常に忠興に翻弄(ほんろう)される日常はストレスを貯(た)めてしまい、彼女はキリスト教という信仰心を持つことで対処していました。
ある意味世界が異なるものとして割り切り、己(おのれ)の世界から排除するしか自我を保つことはできなかったのです。
忠興の現実的な思考、武士社会、男社会のヒエラルキーを保つための厳格な有様などは、殿様としては当時は当たり前でしたが、それでももう少し( 女性としての) ガラシアとの付き合い方はあったようでした。
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ガラシアが評判の美人であったことから、忠興の心は嫉妬や疑いで揺れ動いていますが、それが彼女にとってのいい方向にいっていなかったという事があります。
こうしてガラシアはキリスト教に逃げ込まないといられないほど追い込まれていきます。
つまり小倉藩というのは、殿様の忠興(ただおき)の性格が特別変わっていたわけでもなく、飛び抜けて先進的な考えを持っていたわけでもない普通の体質の藩でした。
もちろん戦乱をくぐり抜けてきた武士としての感覚は持ち合わせていましたが、人間としては「 普通」 で、それも「 当時としては普通」 的な感覚で、一番大事なのが「 藩の維持」 「 武士としての体面を保つ」 でした。
父幽斎が築いた地位や小倉藩 自体を守っていくことが、何よりも最優先だったのです。 従って家老の沼田やその臣下の者たちも概(おおむ)ねそういう傾向に染まっています。
本来なら武蔵と小次郎の「 どちらが強い」 という 興味は、当時の小倉なら庶民 ばかりではなく、武士階級の者たちもその多くが関心を持っていた課題でした。
家老の沼田もその例外ではなく、上司の忠興も関心を持っていましたが、忠興はやはり藩主としての威厳を保つため、表立っての「 決闘」 のプロデュースは出来ないと考えていました。
家老の沼田はそういう藩主の思惑を忖度(そんたく)して、何とか大事(おおごと)にせずに二人を戦わせることができないものか考えていたのです。
そんな中、小次郎が家老の部下の娘に手をつけてしまったので、沼
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田はこの事件に便乗し、小次郎に武蔵との決闘を押し付けています(  しかし押し付けるまでもなく、小次郎と武蔵は自ずと闘う事を望んでいましたが) 。
細川ガラシア( 玉)
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巌流島前夜
実はこの頃、ほぼ同時期に武蔵と小次郎は小倉藩城下にいました。
二人とも主に剣術道場に出入りしています。
もちろん剣の修行でしたが、小次郎の場合は先述したように「 生きるため」 の手段でもありました( それほど重くはなく、成りゆきに近いのですが) 。
主に気に入られた道場主に「 道場師範代」 という名目を与えられ、道場に通っている者たちを指導していました。
小次郎の教え方は他と異なり、やさしくて分かりやすいので人気があったようです。
武蔵は家老沼田の食客として小倉に逗留して、藩直轄の道場などで、剣を教えつつ、自らも剣を磨いていました。
武蔵の強さは「 吉岡一門との決闘」 以来、小倉でもみんな知っていましたから、小次郎とは別な意味で人気がありました。
この場合、武蔵は沼田の正式な食客ではなく、紹介者がいて「 小倉に寄って、しばし逗留するなら宿を貸しましょう」 位の軽い感じでした。
この微妙な関係性が、後々武蔵と小倉藩とのやり取りに影を落としています。
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1608年・武蔵と小次郎の初出会い
最初に武蔵と小次郎が出会ったのは、巌流島での決闘の4年前1608年で、今の中津街道( あまり山はないのですが) の普段ほとんど人の入らない間道で、崖が 切り立ったちょっと山道のようになった辺りですれ違っています。 冬枯れの木洩れ陽が落ちる細まった道筋で、この時はお互い相手が武蔵や小次郎だとは気がついていません。
しかし何となくにおいが同じという感じで、立ち止まらずにじっと目線を交わしています。
お互いの気を感じ、空気を読んで、目で会話するという感じでしょうか。
他に行き交う旅人もなく、微かに鳥の声だけが聞こえている昼時で、雨の日に深く彫り込まれた山道の水の流れた跡を越えながら、背中に気配を感じつつ二人は遠ざかって行きます。
この時はお互い闘う気はなかったのですが、すれ違う前、その瞬間、その後というシーンで、張りつめた二人の気が山道を覆っていました。
打てば響く感じで張られた気の結界は、双方の研ぎ澄まされた感覚故ではありましたが、小次郎の方は荒れた足元にも気をとられず、身体はゆったりとリラックスしていて、何やら楽しげにすれ違っています。
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しかし武蔵の背中には( 冬にもかかわらず)うっすらと汗が滲んでいました。
この時武蔵には「 我いまだ未熟なり」 と認識するだけの器量があり、3年後の1911年 沢庵の待つ大仙院(だいせんいん)参内(さんだい)しています。 (  詳細は後ほど) 。
二人とも放浪癖があり(二人に限らず昔の人間はよくフラフラ と出歩いたようで、それが2、3日は当たり前でした)小倉城下では偶然ですが、その後4、5回邂逅しています。
その頃は二人ともお互いの噂は城下で聞き知っていましたから、「 闘いたい」 という思いがありました。
大概は町ですれ違う程度でしたが、ここでもお互い話しかけようとはしていません。
そういう時の彼らの心境を読みますと、複雑な思いが去来していて、何やら二人はドキドキしています。
しかし隙を見たら 打ち込もうという獰猛(どうもう)さがありつつも、機が熟すまで待つという節度も持ち合わせていました。
シャイで、いつ告白しようかという恋人同士のような感じです。
しかし武蔵も小次郎もものすごい「 獣」 なので猛々(たけだけ)しさと初々(ういうい)しさのギャップが激しいのです。
武蔵に関しては すでにこの頃剣客としては有名で、庶民はもちろん、剣を習っている道場のそれぞれの弟子たちも、 小次郎とどちらが強いのかという野次馬的な噂が小倉城下では飛び交って
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いました。
小次郎が道場の師範の娘に手をつけて、それが師範にバレていたということが、この師範の上司の家老沼田に伝わり、少し問題になっていたと書いておきました。
小倉城下の庶民はもちろんですが、浪人や武士たちも、忠興(ただおき)の臣下たちも「 武蔵と小次郎、どちらが強いのか」 という興味を強く持っています。
実はこの家老が「 巌流島の決闘」 のお膳立てを裏からやっていたのです。 まず師範を通じて、小次郎と武蔵との手合わせを打診しています。
師範は「 勝てば 娘と結婚させてやる」 といっていますが、小次郎にその気はありません。
武蔵には家老( 沼田) の出入りの商人が打診しています。
商人は「 勝てばご家老様が仕官を考えておられる」 と伝えています。
しかし武蔵はあまり乗り気になっていません。
本来 武蔵は「 城勤め命」 くらいの人でしたが、城主の細川忠興からの打診ではなく家老沼田の打診で、しかも 出入りの商人からの伝言で「 仕官して戴きたい」 ではなく「 仕官を考えている」 という曖昧なニュアンスの打診は、武蔵のプライドが反応したようです。
この辺りの小倉藩のスタンスは微妙で、
①武蔵と小次郎を闘わせてみたい・( 家老も藩主も「 闘わせたらどうなるか」 そういう庶民感覚はあった)
②しかし藩主の細川公は、表向きあまり乗り気ではない風を
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装(よそお)いたい細川忠興も二人の闘いを見てみたい、どちらが強いか知りたいという欲求はありましたが、そこは仮にも小倉のお殿様であり、立場をわきまえるという節度もこの頃は構えるようになっていました。 武蔵のこれまでの闘い方( 吉川一門との闘いなど) がわりと凄惨な感じだったので、それは忠興の思うところと異なる剣の有様で、少し敬遠していた節がありました。 これは家老も同じでした。 また小次郎に関してもその腕は知っていましたが、出生、出所が不明な人物だったので、言ってみれば浮浪者のような身分でしたので、これも藩が正式にとり立てるという事もしたくはなかったようでした。
③そこで家老の沼田は、「 藩としてではなく」 自分の範囲でやらせてみたいという判断で、しかも直接打診せず に間接的に巌流島の決闘をプロデュースしていたのです。
しかしその時小次郎も武蔵も「 やる」 と即答しています。
これが巌流島の闘いの約一ケ月前でした。
その三日後に家老の沼田は、十両の支度金を出入りの商人から双方に渡しています。
二人ともそれぞれの思惑はありましたが、獣の勘で「 気が熟した」 と悟っています。
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1582( 天正10) 年・宮本武蔵誕生
兵庫県高砂市米田町
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高砂のやや北部にある米田地区。
諸説ありますがここが武蔵の生誕地です。
加古川にある泊神社に武蔵の養子である伊織が納めた棟札(むなふだ)に記載されたものがあるようです。
その棟札によると、武蔵の生まれは、米田にいた三木城主別所家の家臣であった田原家の次男として誕生したとなっています。
その後、新免家を継ぎ、のちに宮本を名乗っています。
武蔵が生まれたこの年は、信長が本能寺で光秀に殺されています。
( 巌流島に少し 関与していた、小倉藩主細川忠興の奥方がガラシア( 光秀の娘) で、少し関係があるので書いておきました)
武蔵に関してはある程度情報は残されていますので、それ以外の史実にはないところから武蔵の真実を探っていきます。
武蔵が生まれたのが1584( 天正12) 年といわれていますが、本当は1582( 天正10) 年で、巌流島の時( 1612年) 、武蔵は「 30歳」 小次郎は「 25歳」 でした。
この本を収録し始めた最初にその違いを指摘されたものですから、年代や年齢に関して常に修正をかけ、間違いがないかの確認をしなければならなくて( 演算が苦手な) 古川 にとっては、ちょっと負担のある執筆になりました。
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父は新免無二(しんめんむに)ですが、母親のことは何もわかっていないようです。
父親の無二は子供の武蔵に世間一般、通常の感情は持たず、冷めた無関心に近い他人行儀な目で見ていました。
実は母親もそんな感じで、存在自体が薄く、息子をもう情もなく、武蔵の記憶にもほとんど母の愛情という記憶がありません。
無二との関係もありますが、ほとんど武蔵を産んでそのまま、産みっぱなしという感じです。
もちろん母乳は与えず、もらい乳でムサシは育っています( 事情は違いますが、小次郎も同じような境遇でした) 。
自分の息子にここまで情報が薄かったのは、無二との関係でそういう形になったと思われます。
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父も母も情が薄く、元々家名というものをそれほど気にする無二ではありませんでしたが、武蔵 に対しては、ほぼ放任主義で「 武芸への道に行き、自分( 無二) に累が及ぶか、または家名に傷がつくような悪い評判さえなければよし」 という通俗的な関心しかないスタンスでした。 愛情深く育てられた武蔵ではありませんでしたが、同じような境遇の小次郎とは対照的というほどその有様(ありよう)が異なっています。
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しかし子供の頃に両親の愛がなく育てられた子供というのは、まっとうに育つことが中々ないのですが、この二人は「 まっとう」 どころか、後世にその名を残すほどの人物に育っています。
この事実は「 何事も結局は本人次第」 ということであり、生き様はそれぞれですが、共に幼少時からの逆境に負けない強い自分というものを持っていたということがまずあります。
人は幼い頃に「 愛を受けて育つ」 という自覚がないと、「 自分はこの世界で生きている価値がない」 と自らを憐(あわ)れみ、自己崩壊に向かいます。
しかし小次郎も武蔵も「 愛のない環境」 であったのも関わらず、小次郎は「 元々そういうものを必要としていない」 スタンスで、武蔵は「 自ら( 喪失した愛を) 剣に求め」 て、生きていったのです。
そもそも人は、幼少時に愛を受けていようが受けていまいが、一定の年齢( 時期) に至れば「 独立」 しなければなりません。
それが「 自我の確立」 で、いわゆる「 大人になる」 という事ですが、それが中々できていないのが現代の若者たちかもしれません。
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「 出エジプト記」
紀元前15世紀に書かれた
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武蔵の前世
この後武蔵の剣について色々検証していくわけですが、その本質に近づくためには、彼の過去世といいますか、集合魂のかつての生き様を少し探らないといけないようです。
( 過去世や集合魂に関しましては、宇宙全史の書籍、動画で学んでください・面倒な方は、人間の「 前世」 くらいな感じで聞き流しておいて下さい)
武蔵の過去世は「 モーゼの出エジプト」 時代になります。
その時のモーゼが率(ひき)いる難民の中にいます。
モーゼの出エジプト記の真実は「 宇宙全史」 第一巻p153「 プロメテウス( 6番目2億9000万年前」 に詳細が書かれています( 参考にしてください) 。
一般的な「 モーゼの出エジプト記」 は、自己満足、我田引水(がでんいんすい)的なところが内容のほとんどになっていますので、あまり参考にはならないでしょう。
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このモーゼに引き連れられてエジプトから出てきた奴隷たちの中に武蔵がいました。
大概は好戦的で自己憐憫、被害妄想を誇大に抱える人たちでしたが、その中でも攻撃性の強い( 平気で人殺しなどする) 武闘派部族としていたようです。
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しかしこのモーゼの時はまだましで、それ以前のプロメテウス時代や地球に来るまでの間がひどいものでした。
仲間内でも盗ってきたものを分け合うというのではなく奪い合っています。
弱肉強食で弱いものはやられ、近親者であっても蹴落(けお)とすくらいの勢いでした。
とにかく凄惨(せいさん)な集団の中にいたのです。
武蔵も初めのうちは弱くて、やられてばかりでしたが、生き抜くためにエゴを肥大させて強くなっていっています。
そのため地球の武蔵の時代では、肥大したエゴを滅却(めっきゃく)させていくという課題が、そのまま剣の課題になっていて、闘いの中で、如何(いか)に 平静さを見出だすかということが課題(テーマ)となっていっています。
武蔵にとってこの命題は、彼の人生に重くのしかかっています。
そして巌流島の前の沢庵(たくあん)との出会いが、大きなターニング・ポイントになっていたのです。
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1536年・天海生誕
後に江戸幕府の創設に、家康の側近として大きな力を発揮した人物が誕生しています。
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それが天海で、実際に家康の参謀を務めだしたのは1560年( 24歳) の頃からでした。
陰陽道(おんみょうどう)風水に長(た)け、江戸幕府の裏舞台、精神世界的な土台を固めた人物です。
対照的に同時期にあった「 黒衣の宰相(さいしょう)」 といわれた「 金地院崇伝(こんちいんすうでん)は、階級制に基づいた様々な規制、法の立案、宗教統制を行った人物で、天海とは真反対で、いわば江戸幕府の表のシステムを固めた人物になります。
歴史的には色々意見があるでしょうが、天海と崇伝という人物の本質を見るには、沢庵が絡んだ時に明確になっています。
それが紫衣(しえ)事件と呼ばれた宗教事変でした( これは後に詳しくお話しします) 。
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