草枕
画工の思想にはところどころ面白い点もあるが、大目的の「非人情の旅」がかなりしょうもない。喫茶店で隣の席の話を盗み聞きすることを人間観察と称して趣味にしている大学生みたいなものだ。 中身よりもやはり、語感とリズムでグイグイ押していく文章が何よりの魅力だ。
寝れない夜の気散じくらいの気軽さで俳句がすらすら作れたら楽しかろう。
「キスをして3つ数えろ」(スリル)も五七調だ。キスをして3つ数えろ物狂。 「真似をしたつもりか、添削した気か、風流の交わりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、(……)」→話しながらどんどん怒り出す人みたいでおもしろい。
「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら、質問をかけた。
「へえ」
「ありゃ何だい」
「若い奥様でござんす」
「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年御亡くなりました」
「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「御客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
会話を省略せずに冗長なまま描く、小説的でない書き方がこの小説には合っている。
旅館の娘は初登場からずっと振る舞いも台詞もミステリアスで思わせぶりだ。少年にカスの嘘を吹き込むダウナー系お姉さんの系譜。 旅館の隠居の甥、久一は日露戦争の戦地中国へ出征していく。古典の風格を備えた作品だが、書かれた当時の世相を反映した現代小説である。 「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
初めから読んでも、途中から読んでも、終わりから読んでもいいというのは『草枕』という小説自体がそうなっている。
足がとまれば、厭になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。 さっき駅のおにぎり屋でセルフレジの列に引き殺された私も同じことを考えたよ。東京は人が多すぎると誰もが言うのに一向に変わらない。
漱石の探偵嫌いがこんなところにも現れている。
芝居気があると人の行為を笑う事がある。うつくしき趣味を貫かんがために、不必要なる犠牲をあえてするの人情に遠きを嗤うのである。自然にうつくしき性格を発揮するの機会を待たずして、無理矢理に自己の趣味観を衒うの愚を笑うのである。真に個中の消息を解し得たるものの嗤うはその意を得ている。趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい。昔し巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。余の視るところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものは洵に壮烈である、ただその死を促がすの動機に至っては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして藤村子の所作を嗤い得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。
巌頭之感を遺した藤村操の死を画工が論評する場面。藤村を教えていた漱石の感情がいくらか混じっているはずだ。「人情に遠きを嗤う」自然主義派的批評を揶揄している?