敗戦日記
日露戦争時に休戦交渉のためアメリカへ向かう金子堅太郎へ伊藤博文が詩を贈った。その詩を軸にしたものを大倉喜八郎が手に入れ、譲ってもらおうとしたが金子は断られ怒る。結局、高松宮の仲裁で金子が死んだら再び大倉に返却する約束をさせて軸は金子に譲渡された。その返還の約束が果たされる場面の立会人として、大佛が吉川英治や岡部長景とともに招かれたということらしい。 時代がかった上流階級のお付き合いといった趣だが、戦争最末期にこんなことをしていたのが驚きだった。
「詩はいずれも戦争の終結に米国の介入を期待したものである。今日にあたって偶然に暗合するものを含んでいる。大倉たちがそう云うと、宮もそうだねと云われる。微妙な影のある会話である。大倉男らの話は儀礼と御興を添えるものだけだったろうが、宮は和平を期待していられるのだろうか」(p286)
こういう偶然の暗合を知ると「世の中に偶然ということはよくあることだ」という三河町の半七の言葉が頭をよぎって、冷酒かん八よろしく妙な気持になる。 #警視庁草紙 自分には陰謀論にハマる素質があるなあ…とも思う。
前日広島に原子爆弾が投下されたことを、鎌倉の大佛も人聞きで知る。死者は20万という説、12万という説、大した威力ではないという説、諸説紛々だが「どちらが真実か分らぬが革命的に有力なものだ」(p296)という認識はあった。 永井龍男が永井荷風の作品を貶し、田中延二が東海道中膝栗毛に腹を立てたという現状に、文学に遊びは許されなくなったと嘆く。「遊びを失くした文学は官製の骨だけのものだけで人を動かす力を失くしている。書く者が無力なのである」(p296)。 「くやしいと思うのは自分の仕事がこれからだということである。この感慨だけでも方法を講じて後に残したく思う。知らないで死んだのではなく知りつつ已むを得ず死んだのだということを」(p297)
原爆の出現によりいよいよ大佛次郎も自分の死を予期するようになった。「知らないで死んだのではなく知りつつ已むを得ず死んだのだ」という言葉は、戦争の実相をある程度知れる立場だから言えたことで、知らないで死んだ人が大半だっただろう。