地の果ての獄
書き出しの暗い日本海の描写がまず素晴らしい。
仲間の巡査のかわりに女郎衆を人質に差し出せという囚人の要求に素直に応じる巡査たち。特に何も言及されないがクズすぎる。 札幌に向かう2人が邂逅したのはのちの幸田露伴。「あそこには、人間の運命の吹きだまりがあるだろうから」と今後の物語を想像させる台詞を残す。 風太郎にとって幸田露伴の代表作はやはり『運命』なんだろうな。 「益満休之助。──この名前をご存知の読者は多いだろうが(……)」(上巻、p58)といわれても、もはやご存知でない読者の方が多いだろう。山田風太郎の特に明治小説は読者に要求される教養のレベルがかなり高い。それも大衆文芸や大衆芸能由来の知識が多いので、現代の読者からは大部分失われた類の教養だろう。 風太郎は益満休之助が有名になったのは直木三十五の『南国太平記』以降としているが、南国太平記に目を通したことのある人間が現代ではもうレアだ。私が益満を初めて知ったのは確か高校生の頃、北方謙三の『草莽枯れ行く』を読んだときだった。 凶暴きわまりない囚人たち、悪即斬の騎西看守長、安楽殺人者の町医者……この監獄、アクの強いやつが多すぎる! 酔っぱらいの町医者独休庵の登場シーンは山田風太郎初期の名探偵・茨木歓喜の復活か?と興奮してしまった。 空知集治監の看守長・高野襄は長岡藩出身。『幻燈辻馬車』では新政府(=薩長土)に虐げられる旧勢力(=幕臣、会津)の構図を、さらに相対化する存在として会津に虐げられた長岡藩の民が描かれていた。 哀切な身の上話の最中に隙あらば猥談をはさもうとする囚人に「おい、待て、そんな話はいま聞きたくなか」とつっこむ四郎助。
風太郎作品の過剰なエロシーンを読んでるときの読者の声を代弁してくれている。
勇士のように見えた男が勇士でなく、卑怯者とされた男が卑怯者ではなかった「西郷を撃った男」の回。戦争のような極限状態でのこうした転倒はずっと描かれてきた。
廊下の天井の高いランプだけの、仄暗い牢内は海底のようだ。起きていてもただ寒いだけなので、薄い破れ毛布にくるまってじっとしているうちに、天然自然に眠くなると見えて、牢獄の冬は他の季節よりも静かだという。もっとも、海底動物の世界のようだが、そのいびきや歯ぎしりの音は波に似ている。
(上巻、p418)
寝静まった囚人のいびきや歯ぎしりを波の音に喩える非凡さよ。 空知では鴉仙和尚こと元仙台藩士の細谷十太夫が登場。この人も『警視庁草紙』での活躍が印象的だったキャラクターだ。そちらで行動を共にした長連豪と同姓の長可奈子と組み合わせる、旧作読者へのファンサービスもあり。 『幻燈辻馬車』のラストで干潟干兵衛が車を走らせて向かった加波山事件も、この物語ではすでに過去のことで、しかも加波山事件の首謀者たちよりも秩父事件を起こした農民たちのほうが好感をもって描かれている。 高野看守長が山本五十六の兄だからといって、囚人への訓示に日本海海戦の訓示そのままのことを言うのは、さすがにやり過ぎでは……引用される状況に必然性がないし。 独休庵の正体が益満休之助。名前の休の字はドク・ホリデイと休之助で二重にかかっていたのか。益満家の二人による上野の決闘はまさに西部劇的なシーンだ。
「闇の精」のような牢屋小僧が聖書同然の奇跡を起こすクライマックスにも感動した。最も罪深い者が最も神に近かったという展開。 原教誨師を救うためとはいえ罪のない看守を殺してしまうのは、前作ラストと矛盾するようだがどうなのだろう。
開拓精神を描くアメリカの西部劇と大きく異なり、『地の果ての獄』では幕末維新という日本の開拓時代が生んだひずみを背負わされた、かつての開拓者の成れの果てが多く描かれている。 おそらく西部劇のインディアンと似た役割を持たされたアイヌについては正面から描くのを避けた印象だった。 ラストの決闘の相手、騎西看守長についてももう少し深堀りされるかと思ったが、割とあっさり退場した印象。
作者本人のB評価は、前2作ほどきれいに構成がハマらなかったためか?しかし個々の場面には面白いところがたくさんあると思った。
自由民権運動に共鳴し慶應義塾に通い長屋の娘に恋をする「明治の青春」を過ごしていた青年の挫折を描く短編。「貧しいけれど夢を見れる」が明るい明治時代のイメージならば、立身出世にも自由民権にも影がある、そんなにいいもんじゃあないと明治時代の暗い面をえぐり出そうというのが風太郎明治小説の特徴だろう。 馬車や人力俥といった開化の車は個人を容赦なく轢き捨てて顧みない。
この短編は初読だが、風太郎のエッセイやインタビューを読んでいたので「妖怪」のキーワードが出てきた時点で鳥居耀蔵の話かと予測できてしまったのがもったいなかった。 頑固爺と孫娘のほのぼの東京見物から陰惨な結末への落差がむごい。
山田風太郎の巧さとは比ぶべくもないが、私も昔、江藤新平を題材に似たようなテーマの小説を書いたな……
芥川龍之介の『往生絵巻』、魯迅の『過客』など、西方=死に向かう求道者を象徴的に描く作品が多い中で、キリシタンを転ばせた江藤が最後まで東に船出して逃げようとしていたラストも印象深い。 切腹の悲惨さあるいは滑稽さの描写はさすがだが、全体的にはあまり感心しない作。
佐久間象山の息子・恪二郎を主人公に河上彦斎との関わりを描いた短編。河上彦斎の一本立ち手刀の構えは『幻燈辻馬車』の鬼歓こと斎藤歓之助のプロトタイプか。