私固有の映像言語(完成)
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nunnnu.icon私は今日まで映像制作に従事している。だが様々な媒体の作品に触れる中、一定の強度と濃度を持って迫ってくる作品があった。作品として表現されたストーリーの背後、根本的な世界の存在が確かにそこにある。この認識が、表現の可能性への理解を根底から変えた。
内面世界とそれを翻訳する技術的工夫は分けて考えている。どんなに世界は素晴らしくても、それを伝える翻訳精度がなければ伝わらない。他者の内面世界を翻訳装置を通じて体験したときのあの感動を、今度は私自身が提供する立場になりたい。
今日まで映像制作に親しんできた私が目指すのは、「私固有の映像語法」による世界の翻訳である。
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私固有の映像言語とは
作品の物語、ストーリーの背後にある根本的な「世界そのもの」の質感と存在感の翻訳を目的に、その圧倒的な「世界の解像度」で作品の一部分に触れただけでもその重厚感に圧倒されるような新たな映像言語。
「観る」のではなく「触れる」ような体験を目指す。
内面世界の存在感、「世界の解像度」を鑑賞者の「能動的な推論の起動」へと変換するための、「技術的工夫」の総称である。
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世界の解像度とは
作品が提示する「ストーリー」や「登場人物」の背後に、どれほど広大で、重厚的で「生々しい」根本的な世界そのものの存在感を鑑賞者に感じさせられるか。その強度と濃度の度合いである。
「世界を構築する力」そのものであり、自身の「好き」に対する情熱の濃度である。
自分の偏愛的な要素だったり印象を一つの作品に注ぎ込めるだけつぎ込む。全力で好きなことを表現する。これがエンジンとなり『世界そのものの存在感』というエネルギーが発生する。
そうして完成した愛溢れた世界(まだ作品として翻訳していないから、世界)自体には、画一して媒体や作品テーマ、コンセプトにかかわらず作品の外側から必ず人々に深い「情熱」と「印象」を与えるポテンシャルがあると信じている。
創作は本来そう素直であるべきだし、自分の好きを全力で表現した作品はきっとなによりも崇高であるし圧倒的。
以前「解像度が高い」と感じた『夜の化け物』『メイドサントウィッチ』『1999展』『でびるコネクションん』は、作者が自身の「好き」な要素や印象を、適切な翻訳技術で妥協なく「極限まで突き詰めた」結果、その「情熱」が作品から溢れ出し、「“世界そのもの”の存在感」として迫ってきたものである。
(解像度が高いとは)
作者が自身の「好き」な要素や印象を、極限まで突き詰め、織り込んだ結果、その「情熱」が作品から溢れ出し、「"世界そのもの"の存在感」として迫ってきたものを指す。
↑一応メモ
(ズレを元にした触れる翻訳は私の作品の話であり、他作品は関係ない)
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「触れる」ような体験とは
定義
この技術的工夫は、全作品に共通して画一された技法ではない。
鑑賞者に完結した「物語」を消費させるのではなく、その背後に映る「世界の断片」を手がかりに、作中世界の巨大なシステムや歴史を能動的に推論・想像させること。
鑑賞者が映像で表現されたその世界に一部でも触れた瞬間、その世界についてさらに想像力を広げ、妄想し「考え始めた」とき、それは「観る」から「触れる」に変わる。
要するに・・
それは極限まで好きを突き詰めた世界設定の作り込み(世界の解像度)を、その魅力を最大化して翻訳し、飽きさせないための映像的技法(触れる映像言語)の複合である。
メカニズム :どうやって触れさせるのか
この言語の“具体的な技術”は、「意図的なズレ、違和感の設計」である。
「ズレ」は、以下2つの要素の「ギャップ」によって創出される。
1 世界の解像度の「高さ」
「好きの濃度」が極限まで突き詰められた結果生じる、執拗なまでの「質感」や「プロセス」の描写のこと。
例:灼熱の世界を舞台に設定した場合。そこで生活する生き物の工夫が伝わるようなカット・暑さによって変化してしまった風景。など、ストーリーに関係ないその世界自体の質感の描写
→鑑賞者に「世界の存在感」を示唆する。
2 断片 
鑑賞者の「理解(論理)」をあえて妨げる。完全な情報を提示しない。「情報の穴(空白)」を意図的に開け、「なぜ?」という問いを投げかける。
例  
注釈のない固有言語。その世界の常識を説明しない。 
「起承転結」を無視した物語構造(皇居前広場の回転)
何かの儀式や事件の「痕跡」や「結果」だけの提示
上記二つは「みがってであふれた、」で検証済み
→鑑賞者に「情報の穴」の提示
「情報の過剰(解像度)」×「情報の欠落(断片)」
1、2から「世界の存在感は凄まじいのに、意味がわからない」という「認知的なズレ」に直面させる。鑑賞者は「穴」を自ら埋めようと「考え始める」しかなくなる。
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成功の定義
この言語の成功は、自己の世界観を一方的に提供することでなはい。
そもそも、人間はそれぞれ異なる人生を歩んできていて、前提が違う。画一して「同じ印象を与える」こと自体不可能である。目的でもない。
→たとえ鑑賞者が作品に対して「想定と真逆の印象」を持ったとしても、
それがその人自身の能動的な推論の結果であるならば、それは私固有の言語として大成功していると言える。
失敗
→自身の「翻訳技術」の精度が拙く、鑑賞者が「飽きて」しまい何も推論を起動されられないこと。
真に伝わるべきものは「作品のテーマやコンセプト」でなく、作品に込めた「情熱の濃度(熱量)」である。
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最終目標
「触れる」体験(=能動的な推論)を通じて鑑賞者の「意欲や潜在認識に直接働きかける」こと。
その人自身の内側から「世界ってこんなにも自由で面白いんだ」という「気づきの連鎖」を引き起こす「踏み台」になることである。
上記のように、人の前提は異なる。だから、人の気づきはなんでもいい。その人なりの契機になれば。
だが、それが新たな「創作の契機」になれば理想的である。
なんでもいいから作品を投稿した時にそれに対してファンアートがつくみたいな創作を目指したい
#AI
nunnnu.icon最終目標のメカニズムの整理
STEP 1:虚構への没入(エンジンの始動)
「高解像度の虚構」に「情報の穴(ズレ)」を開ける。
鑑賞者は、圧倒的なリアリティ(世界観)に惹きつけられますが、説明不足な部分(穴)があるため、理解できません。
ここで脳は「?」となり、その穴を埋めようと必死に推論を始めます。
状態: 受動的に「観る」から、能動的に**「考える(触れる)」モードへスイッチが入る。
STEP 2:能力の自覚(エンジンの高速回転)
用意した「手がかり(断片)」をもとに、自分なりの解釈で世界を構築し始める。
「この看板がここにあるということは、かつてここは海だったのか?」などと妄想する。
この時、鑑賞者は作品を楽しんでいるだけでなく、**「自分自身の想像力が、こんなにも自由に世界を広げられるんだ」**という体験(自由の実感)をしています。
状態: 「作品が面白い」だけでなく、「想像している自分の脳が面白い」状態になる。
STEP 3:現実への帰還(慣性の法則)
作品を見終え、鑑賞者は現実世界に戻ります。しかし、一度高速回転し始めた「想像力のエンジン(能動的な視点)」は、急には止まりません。
作品内で「看板の裏側の歴史」を妄想していた脳は、その「癖(モード)」を保ったまま、帰りの道端にある「現実の看板」を見ます。
すると、普段なら見過ごしていた現実の風景に対しても、「もしかして、ここにも物語があるのでは?」と、無意識に**推論(穴埋め)を行ってしまいます。
STEP 4:接続完了(解像度の上昇)
結果として、現実世界そのものは変わっていないのに、鑑賞者の「見方(視点)」が変わっているため、世界が鮮明に見えます。
これが、あなたが言う「世界の解像度が一段階上がる」という現象です。
作品(虚構)は、この視点を手に入れるための「踏み台(練習台)」だったわけです。
まとめ:面接や自分の整理のための言葉
もし「虚構と現実のつながり」を聞かれたら、以下のように考えるとスッキリします。
私の作品は、鑑賞者に**「世界を深読みする癖」**をつけるための装置です。
虚構の世界で「情報の穴」を埋めるという**「能動的な推論」**を一度体験すると、鑑賞者の脳はその快感を覚えます。
その活性化した想像力を持って現実を見たとき、見慣れた日常の風景の中にも「隠れた文脈」や「豊かさ」があることに気づいてしまう。
つまり、作品(虚構)を使って「想像力のスイッチ」をオンにすることで、現実(実存)の見え方を更新する。
これが私の考える接続ロジックです。
このロジックなら、飛躍はありません。「作品」と「現実」を繋いでいるのは、「変化した鑑賞者の意識(視点)」だからです。
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辞書
「世界の解像度」
→正体は「好きの濃度」であり、極限まで突き詰めた「情熱」である。
その「情熱(エンジン)」が「“世界そのもの”の存在感」という「エネルギー」を発生させる
「こんなにも自由でおもしろい」
→最終目標。
鑑賞者に能動的な推論を強制させる。「作品の答え」を探していたはずが、いつの間にか「自分自身の“思考”や“想像力”が、こんなにも自由に働いている」という事実を与える。
映像言語という踏み台をきっかけに、鑑賞者自身の「意欲や潜在認識」を呼び起こし、「自分自身の“想像力”がいかに自由で豊かであるか」に気づいてしまう、その“発見の瞬間”のことである。
だから、その気付きはなんでもいい。私の作品(映像言語)を鑑賞者なりの答えで自由に設定し解釈して落とし込んでほしい。
「私たちの内面には、それぞれが独自に感知している鮮明な世界が存在している。」
そして、その「気づき」が、鑑賞者にとっての「新たな創作の契機」(ファンアートとか)になれば理想的である。
「私は、映像を通じて鑑賞者が"世界の隠れた豊かさに"気づく体験を創出したい」(志望理由冒頭)
→自身や作品制作者が提供する「作品」の、その世界そのものの豊かさ 解像度
を、鑑賞者に(映像言語を通じて)提示して能動的な思考を起動させる。
→自身の作品を通じて鑑賞者が世界の存在について考え始めた時、それが想定と合っていようが異なっていようが鑑賞者自身の「新たな世界」が生まれる。
これは、今まで鑑賞者自身が気づかなかった(隠れていた)世界の豊かさ(想像力)の発見的体験である。
「自分自身がこれほど自由に世界を想像できるのだ」
世界の隠れた豊かさ(=現実世界を面白がる視点)への気づきである。
Q ドキュメントには『世界の豊かさ』と書いてありますが、あなたの狙いは『個人の想像力』ですよね? 違うのではないですか?
nunnnu.iconいえ、その二つは同義だと考えています。 世界がいかに豊かであっても、それを感知する『想像力』というアンテナが錆びついていれば、その豊かさは存在しないも同然です。 私は、鑑賞者の想像力を解放することで、逆説的に、そこにあるのに見えていなかった『世界の隠れた魅力』を照明したいです。
「作品の一部に触れただけで圧倒的な世界の豊かさが伝わるような私固有の映像言語の確立を目指す。」(志望理由終盤)
→志望理由は自己の話でなく、この大学で行いたいことを書く場所である。これで間違いない。
作品の一部に触れただけで圧倒的な世界の豊かさが伝わる「私固有の映像言語を確立する」のはこの大学で目指すこと。
#結論(に対するAIの評価)
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