質問v2
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「みがってであふれた、」について
Q なぜ「物語」ではなく「映像アルバム(断片)」という形式を選んだのですか?
nunnnu.icon「私固有の映像言語」のプロトタイプとして、「世界の質感と存在感」の構築を重視したからです
作品の印象を物語性に依存させるのでなく、その背後の根本的な世界の存在感を伝えることが目的だったため、あえて起承転結は無視した展開で構成しました。
登場人物がこの世界に力強く生きている。という存在感を日常を切り取る「スライス・オブ・ライフ」に技法を踏襲して表現しています。
3部構成なのも同じ理由です。共通した世界ではあるものの各話ごとに主人公が異なっており、物語の依存から脱却するという意図があります。
たた、これはプロトタイプである故の精度の拙さであることも了解しています。本来起承転結を踏襲した物語作品においても、その世界を一部を切り取っていることには変わりないと考えており、本来はこの状態でも物語でなく世界の存在感を伝達できれば理想的です。
プリプロ段階では物語を削除しない方針も検討しましたが、現状の私の翻訳技術だとどうしても存在感を与えることが難しく、この技術的工夫を貴学で学びたいと考えています。
Q タイトルの「みがって(身勝手)」は通常ネガティブな言葉ですが、なぜあえてこの言葉を選んだのですか?
nunnnu.icon長田弘さんの詩を通じ、過去と日常について考えた時に「一番人間らしい」言葉ではないかと思ったからです。
人は過去を自分なりの方法で自由に再構築して今日という当たり前を生きています。そのまま受け入れることまあれば、時にはすべてから目を逸らしてしまうときもある。そういった「みがって」な営みこそ、今日という当たり前を成立させるために必要なある意味一番人間的な行動であると考えました。
Q 長田弘さんの詩を、具体的にどのように「映像」へ翻訳しましたか?(文字を映像にする際、一番苦労した点は?)
nunnnu.icon過去の類推を乗り越えて、今日を生きる姿を描くことに注力し、主に「スライス・オブ・ライフ」の手法を踏襲しています。
無理して起承転結を構成するのでなく、当人の日常を切り取るようなアプローチを通じて、この世界に登場人物が「存在している」という感覚を強調させる目的です。
例えば第一話では「自身の感情の起伏が天気として世界に反映されてしまう」人の姿を描きました。
主人公は自身のどうしようもない個性を受け入れて、前向きに今日を生きます。個性を受け入れ逆に楽しんでいる様を「一人称視点のカメラ」構図や「スプリットスクリーン」で表現しました。
Q 第二話の色彩の変化について触れていましたが、技術的にこだわった点や、リファレンス(参考)にした作品はありますか?
nunnnu.iconリファレンスにした作品は特にありません。当初からこの表現は必ず行おうと決めていました。また、対象部分は、楽曲が起動するタイミングと連動しています。
作品としての転機のタイミングを、楽曲としても盛り上がる部分に合わせることで印象ただせる工夫をしました。
Q 個人的な作品になりすぎて、他者に伝わらない恐れはありませんか?
nunnnu.icon意図が他者に伝わらない可能性は十分にあると思います。ですが「私固有の映像言語」は、私が想定した印象の伝達が目的ではありません。
各作品に関係なく、私が目指す唯一の目標は「世界ってこんなに自由おもしろいんだ」と鑑賞者自身の想像力の豊かさに気づかせる体験の創出です。
究極、私の想定と真逆の印象を鑑賞者が持ったとしてもいいと思っています。作品についての何かしら考察した時点で「私の世界に対して能動的な推論」を行ったという事実であり、そうして構築されたものは「鑑賞者が想像した新たな内面世界」と言えるはずです。この想像力の起動こそが唯一の目的であり、私はこの気づきの連鎖を起こしたいと考えています。
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「志望理由」について
Q あなたの言う「私固有の映像語法」とは、この作品でどの程度達成できましたか? まだ足りないとしたら何ですか?
nunnnu.icon6割くらいだと思っています。「みがってであふれた、」では私の言語の特徴である物語の背後にある「世界そのもの存在感と質感」の提示という要素をかなり強引に叶えてしまった側面があります。
本来、起承転結を踏襲した作品だとしても世界の断片を切り取っていると言えると思っていますが、本作ではあえてそれを放棄した構成になっていたり、1 エピソードで完結せず複数話構成にしてしまったり・・・
私の翻訳技術の拙さからくる制約的妥協がかなりあった。というのが正直な感想です。
貴学では1,2年次でこの翻訳技術をの基礎を学びたいと考えています。独学で培ってきた技術的工夫を今一度体系的に学び直し、3年次からのイメージラボにて、自己のテーマである「私固有の映像言語」を確立したいと考えています。
Q 「世界はこんなにも自由で面白い」という気づきを目標としていますが、この作品を見た人は、具体的にどんな「自由」に気づくと想定していますか?
nunnnu.icon鑑賞者自身の想像力の豊かさに気づく体験だと考えて今います。
私の作品で表現された世界に触れて、この世界について能動的な推論を始める。鑑賞者が想像力を活用してある意味「新たなオリジナルな世界」を構築します。この営みことが芸術の本質だと考えています。私の作品を鑑賞者自身の手で自由に解釈して落とし込んで・・・こういった経験を通じて「あなたはこんなに自由に世界を想像できる」と気づいてほしいのです。
Q あなたは「技術」と「内面世界」を分けて考えているようですが、あなたにとっての「良い技術」とは何ですか?
nunnnu.icon見た目のインパクトだけが先行して頭でっかちになっていない。ちゃんと意図ある表現技術が良い技術だと考えています。
全てのメディアは内面や意図を翻訳するための装置だと考えています。そして、その内容を最大化させ伝えるための技術だと考えています。ぱっと見の印象の華やかさだけを重視して、内容がない技術表現は拙いのと同時に、そもそも存在する意味を成していないと考えています。
Q あなたが映像に拘る理由は?他媒体に感動したのに他に映らなかった理由は?
nunnnu.icon映像こそが私が初めて獲得した「自分の軸」だからです。 そして、他媒体の描写力に私の映像が負けた「悔しさ」が原動力だからです。
文字だけの小説が、映像よりも鮮明に世界を描いていたことに衝撃を受けました。
全てのメディアは内面を他者に伝えるための「翻訳装置」だと考えています。 小説の翻訳精度が高かっただけで、映像という媒体自体が劣っているとは思いません。 だからこそ、私は媒体のせいにして逃げたくない。 私が最も信頼する「映像」でその解像度を超え、受動的な鑑賞者が世界に「触れる」ような体験を作りたいと思っています。
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「映像言語」について
Q 「具体的にどういう言語ですか?」
nunnnu.icon作品の物語性やストーリーの背後に存在する根本的な"世界そのもの"の質感と存在感の翻訳を目的に、その圧倒的な「世界の解像度」で作品の一部分に触れただけでもその重厚感に圧倒されるような新たな映像。
「観る」のではなく「触れる」ような体験を目指しています。
内面世界の存在感「世界の解像度」を鑑賞者の「能動的な推論の起動」へと変換する。
そのための"技術的工夫"の総称です。
nunnnu.icon作品の物語やストーリの背後にある「世界そのもの」の質感と存在感の構築を重視した新たな映像表現であり、私の目標です。「鑑賞する、観る」のではなく「触れる」ような体験を目指しています。
高解像度の世界を「触れる」「能動的な推論」に変化するための技術的工夫の総称であると考えています・
Q 『観る』と『触れる』の違いについて、もう少し具体的に教えてください。映画館で映画を観て感動するのと、あなたの言う『触れる』体験はどう違うのですか?」
nunnnu.iconはい。根本的に異なります。
「触れる」体験とは、言い換えると鑑賞者に「能動的な推論」を強制させるということになります。
作品の一部にふれた瞬間、高解像度の世界の濃度に圧倒され、その世界についての考察を余儀なくさせる。ただ「観る」からこの作品について「考え始めた」瞬間、これは「触れる」に変わると考えています。
触れるメカニズムについても明確です。
あえて意図的にズレを提示します。極限まで突き詰めた高解像度の世界設定を体系的に提示するのではなく、あえて断片としてしようします。
この街固有の言語やスラングを何も注釈なく使用したりなど、この世界に足をつけて生活をしているという存在感だけを与えます。
鑑賞者は「世界の解像度、重厚感は強烈なのに、その設定がわからない」という状態になり、世界について考察し始めます。
この状態に移行した瞬間こそ「観る」から「触れる」に変わった状態です。
Q「伝わるとはどういう状態ですか?」
nunnnu.icon鑑賞者が作品で表現された世界について推論を始めた。 この状態のことを指します。
どんなに素晴らしい高解像度の世界でも、それを翻訳する技術が拙ければ伝わりません。作品について考えてすらくれないかもしれません。世界の魅力を最大化し、飽きさせないための技術的工夫を試行して、やっと初めて伝わると考えています。
「将来」について
Q 独学でここまで作れるなら、大学に入らなくても作家になれるのでは? なぜ「今」「大学」なのですか?
nunnnu.icon いえ、逆に大学の学びは必要だとこれまでの制作を通じて痛感しております。どんなに素晴らしい世界観もそれを翻訳する技術が拙ければ伝わりません。今まで独学で制作を続けてきた私は、翻訳技術の体系生が欠けています。
実際に、プロトタイプである「みがってであふれた、」では、世界の存在感を確実に伝えるために3部構成になってしまったりなど、、現状の私の技術は高解像度の世界の魅力を完全に翻訳できるほと精度が高くありません。
貴学で技術と理論を往還させながら翻訳技術の精度を向上させていきたいと考えています。
Q 「イメージラボ」で具体的にやりたい実験や、学びたい教授はいますか?
nunnnu.icon私自身のテーマも内面世界の翻訳というジャンルである関係上、記憶のあり方などをテーマに扱っている港千尋教授とは一度お話ししてみたいと考えています。
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レベル1:基礎・確認(必ず聞かれる)
これらの質問は、あなたの資料を読めば自然と湧いてくる疑問です。準備した回答(軸・悔しさ・触れる)を落ち着いて出せば大丈夫です。
Q1. 「小説の解像度を超えたい」とのことですが、具体的に『夜の化け物』のどういう描写・シーンで、映像が負けたと感じたのですか?
【意図】 「なんとなく感動した」ではなく、分析的に作品を見ているかを確認します。 【対策】 具体的な1シーン(例えば、心理描写の深さや、風景の空気感など)を挙げて、「映像では映らない匂いや温度まで感じられた」などと具体的に答えてください。
nunnnu.icon小説はすべてを文字だけで表現します。扱える情報は私が親しんでいる映像方が何倍も多いのに関わらず。「よるの化け物」からは、登場人部がこの世界に足をついて生活をしているような、ある意味強い存在感を感じました。中盤以降のクラスのどろどろと沈んだ雰囲気では本当に読者である私も呼吸が重くなるような体験をしました。
これは今まで私が親しんできた映像ではあまり感じなかった印象で、これを映像でも成しえたいと考えるようになりました。
Q2. 作品『みがって』で、あえて物語(起承転結)を排除した理由は何ですか? 見ている人が退屈するとは思いませんでしたか?
【意図】 「構成力がないから物語から逃げた」のではなく、「意図的な選択」であることを確認したい質問です。 【対策】 「退屈させないために、一つ一つの断片の映像強度(解像度)を高めました。物語を追わせるのではなく、空間に浸らせることを狙ったからです」と答えます。
nunnnu.icon「私固有の映像言語」のプロトタイプとして、作品としての強度を物語やストーリー性に依存させず、世界そのものの存在感を提示するのに注力したかったため物語は排除しました。
主に「スライス・オブ・ライフ」の技法を踏襲し、登場人物の日常を切り取るようなアプローチを構成したことによっって、この世界で生きている。という存在感を演出できたと思っています。
また、鑑賞者が「飽きる」というのは「私固有の映像言語」における唯一の失敗を意味しています。もちろん危惧しました。
目指す目的は「この世界について能動的な推論」を起動させることであり、それが達成できず作品に「飽きて」しまうことは私の言語における唯一の失敗です。
「みがってであふれた、」での起承転結の放棄は理想的ではありません。
本来起承転結を踏襲した物語作品においても、その世界を一部を切り取っていることには変わりないと考えており、本当はこの状態でも物語でなく世界の存在感を伝達できれば理想的です。
プリプロ段階では物語を削除しない方針も検討しましたが、現状の私の翻訳技術だとどうしても存在感を与えることが難しく、この技術的工夫を貴学で学びたいと考えています。
Q3. あなたの言う「世界に触れる」とは、具体的に鑑賞者がどういう状態になることですか?
【意図】 抽象的な言葉の定義を確認します。 【対策】 「ただ画面を見るだけでなく、映っていない部分(画面の外の音や温度)まで想像し、まるでその場にいるかのような錯覚(能動的な推論)が起きている状態です」と定義してください。
nunnnu.icon私の作品を通じて「能動的な推論」を強制させること、作中世界について鑑賞者自身想像力で考え始めた時、それは「観る」から「触れる」に変わると考えています。
触れるメカニズムについても明確です。
あえて意図的にズレを提示します。極限まで突き詰めた高解像度の世界設定を体系的に提示するのではなく、あえて断片としてしようします。
この街固有の言語やスラングを何も注釈なく使用したりなど、この世界に足をつけて生活をしているという存在感だけを与えます。
鑑賞者は「世界の解像度、重厚感は強烈なのに、その設定がわからない」という状態になり、世界について考察し始めます。
この状態に移行した瞬間こそ「観る」から「触れる」に変わった状態です。
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レベル2:概念・深掘り(合否を分ける)
あなたの独自理論(翻訳装置など)に対して、教授が知的な関心を持って投げる質問です。ここをクリアできると評価が跳ね上がります。
Q4. 映像は「具体的」すぎて、逆に想像の余地を奪うとも言われます(小説の方が抽象的だから想像できる)。それでも映像で「想像力」を刺激できる根拠は何ですか?
【意図】 メディア論の核心を突く鋭い質問です。 【対策】 最高の切り返しどころです。「だからこそ『スライス・オブ・ライフ(断片)』なんです。全てを見せず、情報の引き算や余白を作ることで、映像でも小説以上の想像力を喚起できると信じています」と答えてください。
nunnnu.icon確かに、小説は全てを文字で構成する構成から鑑賞者に想像させやすいという特徴があります。映像が全てを視覚情報で提示してしまう関係上小説にくらべて想像の余地がないというのも間違いありません。その通りだと思います。
しかし、そこが映像にしかない強みだとも思っていて、想定した質感や印象を強烈に与えることができます。ある意味「質感の直接性」が高いの映像の最大の特徴です。
そして、私の映像言語では鑑賞者に「ズレ」を提示します。
高解像度の世界の質感や存在感を示唆するようなカットを体系的に描写するのでなく、あえて断片的に提示します。
高解像度の世界を質感の直接性が高い映像という媒体であえて断片として提供する。鑑賞者は「こんなに世界の存在感、重厚感は強烈なのに、その設定がわからない」と言う状態になり、答えを探すために世界について考察し始めます。
これこそが私の映像言語が目指す「能動的な推論」であり「観る」から「触れる」に変わった状態です。
Q5. 「身勝手(みがって)」を肯定的に捉えていますが、独りよがりな作品(自己満足)と、あなたの目指す「個人の再構築」の違いは何ですか?
【意図】 アーティストとしての倫理観を問うています。 【対策】 「他者を拒絶するのが独りよがり。私が目指すのは、鑑賞者の『身勝手さ(記憶の投影)』も許容するような、開かれた作品です」と、「他者の参入余地があるか」で線引きすると良いでしょう。
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nunnnu.icon明確な違いは、「他者が入り込む余地(余白)があるかどうか」です。
「独りよがり」な作品は、作者の言いたいことだけを詰め込んで、観客に一つの正解を押し付けます。これは対話の拒絶です。
対して、「私固有の映像言語」は鑑賞者自身の「自由な解釈」を許すことです。
私は作品を通じて世界の設定を全て説明するのではなく、あえて断片を残します。
その余白を、鑑賞者が自分自身の記憶や経験を使って「勝手に」埋めること。
つまり、作者である私の身勝手と、鑑賞者の身勝手が共存し、鑑賞者の数だけ異なる世界が完成することを目指しています。
その「開かれた構造」がある点が、閉鎖的な独りよがりとは決定的に異なると考えています。
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レベル3:変化球・意地悪(地頭の良さを見る)
準備していない角度から、あなたの素の反応を見るための質問です。
Q6. あなたがライバル視しているのは小説家ですが、逆に「この映画監督は、その『小説の領域』に近づけている」と思う映像作家はいますか?
【意図】 映像作品もちゃんと見ているか(勉強しているか)を確認します。 【対策】 もしいなければ正直に「まだ出会えていません。だから私がやりたいのです」と言ってもいいですし、岩井俊二やタルコフスキーなど、映像美や詩的な表現が得意な作家を挙げて、「彼は近いですが、私はもっと〇〇したい」と比較するのもアリです。
nunnnu.icon映画監督などではないのですが、山口駿さんの作品には毎回感動させられております。
主にMVやPVなどを手掛けている作家で、彼がの制作する作品には画一して「これが好きなんだろうなぁ」とある意味オタク要素がうっすら感じられます。
私固有の映像言語にもある「世界の解像度」とは、「世界を構築する力」でありどれだけ世界に自身の偏愛的な偏り、「好き」を詰められるかだと考えています。
彼の作品はすべて「解像度が高く」目標の一人でもあります。
Q7. もし大学に入って、映像以外のメディア(プログラミングや立体作品など)の方が、あなたの言う「翻訳」に適していると気づいたらどうしますか?
【意図】 アドミッション・ポリシーにある「柔軟性」を見ています。 【対策】 「目的は『世界への翻訳』なので、より適した手段があれば貪欲に取り入れます。ただ、今の私は映像の可能性を一番信じているので、まずは映像を極め尽くしてから判断します」と、柔軟性と芯の強さを両立させて答えてください。
nunnnu.icon映像にこだわり続けると思います。これは私が小説に以降しなかった理由と同義です。
映像こそが私が初めて獲得した「自分の軸」です。
全てのメディアは内面を他者に伝えるための「翻訳装置」だと考えています。 たとえ他媒体の方が翻訳に
適していたとしても、それは翻訳精度が高かっただけで、映像という媒体自体が劣っているとは思いません。 だからこそ、私は媒体のせいにして逃げたくない。 私が最も信頼する「映像」でその解像度を超え、受動的な鑑賞者が世界に「触れる」ような体験を作りたいと思っています。
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