自省と共有のバランス
nora.icon
Unnamed Campで行われているような知営に於いては、多くの場合考える対象に自分を含んでいる。よって、ここで話をしたいような人々は、多分ほとんど常に自分を主語に含んだ考え事をしており、自分個人の場でもそういう考え事を発信している。
そしてその考え事の文脈に例えば「未熟さ」の考察が含まれていると、人と一緒に話すものとしてその話題を捉えられなくなりがちである。
その話題はその人だけのものではないはずだけれど、その話題を出した人の中で「一般的なもの」として共有する準備ができていない。
言い換えれば「まだ解決できていないほど複雑で難しい問題」であるのに、「まだ解決できていない」ということを理由に、自分の場から外に持ち寄っていくことができなくなる。
そういうことが、「それぞれで色々考えているのに、みんなで考える場に提供できない」「しかし、提供されさえすればワッと書き込まれて楽しい時間が持てる」「とわかっているのに、次の話題が出せない」ということを引き起こすのではないかと感じている。
「知の営所」と言うからには、ここは「人生相談会場」にはなり得ず、一度客観的なものとして捉え直してから書き込みたい。しかし、客観的なものとして捉え直すことが難しいからこそ知を持ち寄って解体していこうというのが「知の営所」の役目であるようにも感じる。
そういうことを思っているのですが、皆さんはどう思われますか。(急に投げてすみません)
rashita.icon一つずついきましょう。
「知の営所」と言うからには、ここは「人生相談会場」にはなりえないか
直感的にYesという感じもしますが、もうちょっと考えたいところ。
たぶん、人生相談会場はYahoo!知恵袋とか発言小町的なイメージだと想定。
逆に言えば、人生相談会場において、知は営まれていないのか、という疑問を立てられる。
情報交換や、一方的なアドバイスが知の営みに相当するのか、という疑問に変換できる
これはやや厳しい(Yesと頷きにくい)感じはする
この辺はさらに探究できるが一旦Noとしておこう。知の営所と人生相談会場は異なる場である。
その上で、もう一段疑問を立てる。
知の営所に、「人生相談」が持ち込まれたとして、それがすぐさま知の営所を破滅させるだろうか。
これはすぐにNoです。
比率や割合が問題となり、それで溢れ返るようなことになっていなければ、知の営所は崩れないし、むしろそれを石炭にして蒸気機関が回りはじめることもある(はず)。
nora.icon私もそう思います。それで溢れ返るようなことになっていなければ。
よって、客観的なものを目指すために、まず主観的なものから書きはじめてもまったく問題ない(それがストレートに人生相談の形になっていてすら構わない)、というのが個人的な所感。
nora.icon多分「客観的なものを目指す」のが前提という意味で、「人生相談会場(=あくまで個人の人生が対象の場)」とは距離があると私は感じたのだと思います。
nora.icon客観的というか、抽象の階段を一段二段上るという感じでしょうか。
言い換えれば「まだ解決できていないほど複雑で難しい問題」であるのに、「まだ解決できていない」ということを理由に、自分の場から外に持ち寄っていくことができなくなる。
だからこの話はまるっと逆転します。
「まだ解決できていない」から、外に(あるいはここに)持ち寄ってよいし、なんなら持ち寄って欲しい。
あるいは、場の捉え方の変更があればいいのかもしれない。
「自分の場」と「外」という二分ではなくて、その中間にある存在。
「自分の場」でもありながら、しかし「外」とまではいえない場所。
建物のメタファーであれば、シェアハウスのリビングルームのような存在。
nora.iconプライベートに立ち入る必要は全く無いわけですが、この場にいるイコールここにいる他の人とは仲良いものとして書き込んでいくという意識があるとうまく回るのかもしれないと思いました。ちょっとずつ知って仲良くなっていこう、とかいうより、敵意があるはずがないので仲良しも同然だよねという感じの。
nora.iconというか、自然とそういう感じになっているのが既に良い感じに作られているページだなと思いました。
だから「なんかさー、ぜんぜんまとまってないんだけど、これどう思いますか?」みたいなものでも全然OK。
というか、まとまっているんだったら、「共同ブログ」的なものの方が合っていますね。
主観が混じっていてもいい。切り分けられていなくてもいい。
「そこから」話をはじめよう、というのが知の営所ではないか。
たとえば、「それって違うことありませんか」と言われるかもしれないが、言われてもたぶん心理的なダメーシはそう大きいことにはならないのではないか(あくまで予想ですが)。
みたいな感じです。