自分が自分の先生になる
学ぶことには先生が必要である。なぜだろうか。
それは学びはじめる人間がひ弱だからだ。脆弱で、すぐに足がすくみ、サボるための言い訳と、それを正当化する酸っぱい葡萄を見つける達人だからだ。
何かを学ぶことは、既存の習慣から抜け出ることであり、自分の理解・知識体系を組み替えていくことであり、ときに自分の無知さをどうしようもなく悟ることでもある。とてもソフトな道行きとは言えない。筋トレがそうであるように、知的な向上とは既存のネットワークの破壊と再生を意味し、そこには何かしらの痛みが伴う。一人の人間は、特に学びはじめた人間はその痛みとうまく付き合うことができない。そのとき、私たちは「今の自分が知っていること」から外に出ようとせず、そこで安住することを選択してしまう。
だからこそ、学ぶことには先生が必要なのだ。学ぶ人に寄り添り、導き、励まし、ときに守ってくれる存在。そういう存在を、自分自身の中に確立すること。それが、自分が自分の先生になるということだ。
それはメタ認識の確立であると共に、ポジティブな自己認識の肯定である。ただしそれは、具体的な証拠による論証を持つ肯定ではない。先生が生徒を励ますのは、解析された成績データを見てその生徒が励ますに値する証拠を持ってるからではないのと同じである。そこにあるのは、「信じる」という賭けのような心の動きである。
つまり、自分が自分の先生になるとは、自分自身を信じることだ。あるいは自分が持つ可能性を信じることだ。