知的生産の技術はいかにまとめるのがよさそうか
知的生産の技術はたくさんある。それをいかにまとめるのが、技術を学び、実践していく人にとって好ましい形だろうか。 何を「知的生産の技術」と呼ぶのかの厳密な線引きはいったん無視
それっぽいものたちがたくさんある、という認識の共有があればそれでOK
考えられるパターン
入門→上級、簡易→複雑(高度)
全体のプロセスごとに分解(読む→考える→書く、など)
明らかに体系的とは言えないパターン
複数人の知的生産のやり方を集めたもの
たとえば、Tak.さんの名前のない技術シリーズを10人分集めて「はいどうぞ」と提出したものは、体系的とは言い難い気がするrashita.icon
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おそらく、「〜学」を学ぶという入門的視点よりも、スポーツや趣味などの実践を学ぶ入門的視点の方が「技術」を扱うものとしては適しているのではないか。
あるいは、そのハイブリッドはありえるか。
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知的生産について入門を作ることの難しさとして思うこと
理想像が視覚的に判別できない
スポーツや趣味は、大抵の場合「最終的にはああなるのが完成形なのだ」みたいなことが未経験者にもおおよそわかる
芸術的なものは理想像が一点に集約されないが、とりあえず「ここに至ったら『できている』ということだ」という判別はしやすい
具体的に目に見えるところはありそうですねissac.icon
空手の昇級だと、特定の技をちゃんと覚えているかどうか、で試験の合否が決まる
チェックポイントがある感じですねnora.icon
その点で知的生産の技術と似た難しさと戦っているのが「文章術」か
文章術は体系的にまとめるということがどの程度達成されているのでしょうか🤔
(文章術の本はnora.iconもいくらか読みましたが、なんとも言えないなと感じています)
あと知的生産の技術は、それを理解するために必要とされる前提が結構厳しい
梅棹のカード・システムがどう誤解されたかが「『知的生産の技術』その後」に書いてありましたが、ごくシンプルな条件とごくシンプルな方法であっても、それを理解するのが相当大変という印象
(『梅棹忠夫著作集 第11巻 知の技術』をまだ一部ですが読みました)
となると、知的生産の技術入門としては、いきなり「システム」を紹介するのではなく、もっとごくごく単純なトレーニングを積む場が最初に必要と考えられるかも?
「知的生産」の体験コーナーみたいな
「あなたも知的生産してみよう!」「これが知的生産だ!」みたいな
既に知的生産の技術的なものに触れている人であっても、知的生産というものに対する誤解というのはままある気がしています
どこまで親切にするのかというラインを決めることが必要なのかもしれません
ライフハック的に小さな技術をちょっと取り入れるみたいなことが難しい世界っぽいというか
その点で、知的生産の技術については『独学大全』のようなまとめ方も難しそう、という印象があります(印象だけなので、実際どうかは判りません)
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そもそも、この疑問を持っていること自体、体系的さへの単純な礼賛が陰っていることも示している。
もしかしたら、「明らかに体系的とは言えないパターン」の方が、実践において役立つのではないか、という疑義(というか問題意識)がある。
nora.iconそもそも知的生産の技術は、個々人の内側に固有の体系が出来上がっていくものであって、外側に「知的生産の体系はこれです、どーん!」とはいかないのかもしれません。
よって、各個人の体系を集めたものをなぞっていく方が、自分の中の体系を作ることに貢献するのかも?
見聞きして得たものが、自分の中の体系のどこに位置づけられていくかが千差万別になってしまう世界というか。
とはいえ、人の体系を取り込むにあたってはまた技術というか解釈方法というかそういうものが必要になる気は致します。
rashita.iconそれでもあえて考えてみる
知的生産の技術が最終的にそれぞれの人の中で「自分の体系」を作り上げることが必要だとして、そのための情報提供が体系的にまとめられていることは役立たないだろうか。
つまり、「知的生産の技術の体系」を読む人にインストールする目的ではなく、知的生産の技術が体系的にまとめられていることで、どんなパーツがありうるのかを知り、その中から自分の体系に取り入れたいものを選ぶ、ということは可能ではないか。
ライブラリ、あるいはモジュール。
言い換えれば、知的生産の技術の体系を提示すること(ないしは、知的生産の技術が体系的にまとめられていること)は、そのまま個々人が知的生産の体系を構築することを排他的に排除するものではないのではないか、という疑問。
上を書いていて思ったが、
知的生産活動の体系
知的生産の技術の体系(あるいは体系的なまとめ)
は異なるのではないか。
この混同が混乱を呼んでいる?
nora.iconそれですね! インストールされた結果できる体系とインストールのための体系は別だなと思いました。
例えばパソコンそのものの体系とパソコンの取扱説明書の体系は全然違う、という感じですかね。
知的生産活動の体系は、間違いなくそれぞれの人が自分の中で自分に合った「自分の体系」(システムと言い換えてもよい)を作る必要がある。
一方で、それをサポートする「知的生産の技術」は、何らかの体系的なまとめが可能ではないか。
この差異をもう少し検討したい。
完成された一つの方法を示すのではなく、かといっていろいろな人の方法を複数並べるのでもない、第三の方法。