断片の背後には全体が潜んでいる
ただ一つ破片があるとき、それは断片と認識されるだろうか。むしろそれは全体と認識されるだろう。
つまり、断片という表現は、すでにその背後に全体をまなざしている(引き連れている)。つまり、断片は断片的ではない。断片は、どこかの全体に包括されていることが(たとえそれがその時点で不在だとしても)念頭に置かれている。
ikkitime.iconただ、「断片」という言葉もニュートラルなわけではなくて、「断片」と言われると、
「全体がまだ見えていない」ことが暗示されるような気がする。全体が先に見える場合、部分とか部品という言葉で発想されるのが自然だ、と先読みしてしまうから。
rashita.icon全体はある(ありうる)が、しかしその位置づけが定まっていないとき、断片と呼ばれる、というような?
ikkitime.iconそうですね。だから、全体から切り出したもの、特に切り出したままのものは「断片」という言葉の印象が意外とハマらない気がします。
choiyaki.icon断片には「意図的に切り出したものではない一部分」という印象があります。
その点が、Atomicとの違い。
rashita.iconその「意図」がもう少し気になります。
たとえば、「断片集」などいった著作集がありますが、そういうものを「意図的」に作ることは可能でしょうから、そこで含意されている「意図」は、なにか全体像に関わる要素なのでしょうか。
choiyaki.iconその場合は、「集める」部分に意図が介在しているように思います。
ちぎり絵を構成する一つ一つの紙は断片ですが、それを意図的に集めて1つの絵・作品にしているように。
全体に位置づけるために手を加えられた断片は、断片ではないような感じがします。
rashita.iconつまり「かつて断片だったもの」になってしまう、と。
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(対話の邪魔にならないように空行を挟みましたnora.icon)
nora.iconすみません、何が論じられているのかよくわからなくなってしまったのですが、これは元は「Atomicと言うからには(それを断片と呼ぶ場合と同様に)全体を構成する一部分として存在する何かであるという意識が必要だ」というような話だったのでしょうか?
且つ、そもそも「断片」という単語をそのようなシンプルな意味合いで表現してしまってよいのか、他に伴ってしまうイメージがあるのではないか、というような問題意識が生じているという状況なのでしょうか。
rashita.iconAtomicについて書こうとしたら、それって全体と断片の感じに似ているよな、と思ったのがスタートです。atomicというと、個別的・独立的な感じがするけども、そうではなく、そもそも全体の中に位置しているその要素を取り出す行為なのだ、という感じ。
で、そこから話がいろいろ広がってきているのが現状です(その話の広がりは、私の当初の予定をはるかにこえて広がっている状態です)。
一応現時点でまとめるなら、「断片」と言うときに、全体が意図されるとは思うが、断片と全体の関係性がどのようなものであるかの探究が行われているように思います。
rashita.iconは、何かが断片と評されるとき、それを内包する全体が(その時点で不可視・不確定)であっても意識されているし──いわば不全感がある──、その意味で、部品の含意もある(あるいは来るべき部品という感覚がある)と捉えています。
ただ、それが部品とは呼ばれずに断片と呼ばれているならば、その全体は在るべきものであるにしても、まだ立ち現れていないものである、というのがikkitime.iconさんのコメントだと思います。
nora.iconありがとうございます!
atomicというと、個別的・独立的な感じがするけども、そうではなく、そもそも全体の中に位置しているその要素を取り出す行為なのだ
この部分に「そう見たほうがいい」というメッセージ性を勝手に見出してしまったために「~という意識が必要だ」という解釈を書いてしまいましたが、表現の強さ的にちょっと意図を外れてしまっていたかもと反省しました。
「断片」とは何か、という問いの裏?というか支えになるもの?として、全体に対する部分を示す名詞としてどんな選択肢があるかという論点がありえそうだなと思いました。