幸せで平安な人生を送りたいという願い
これまで生きてきて、rashita.iconは上記のような願いを持ったことがない。
幸せで平安な人生を送ってきたからだろうか(あたり前過ぎて意識されない)
それとも、あまりにもそれとは距離がある人生を送ってきたからだろうか(酸っぱい葡萄)
それとも、それとは別の願いがあり、そればかりを考えていたからだろうか(zoom)
三つ目が一番ありそう。
nora.icon「幸せで平安な人生」はほとんど何も定義していないように感じます。
何かを定義している人はそういうぼんやりした表現がピンと来ないのではないかと思いました。
一般的に何をもって「幸せで平安」とするのかがnora.iconにはよくわからない。
もし誰かが強固な信念の先に「一言で言えば『幸せで平安な人生』」という表現に至ったとすれば、そこにはそれを補強する様々な具体的表現が連なっていく気がします。
定義したい人と定義したくならない人との境界はどこか?
「金」「名声」のような単純かつ尖ったもので定義することを早々に覚えてしまうパターンもある。
「幸せで平安」というふんわりした定義すら存在しないパターンもあるかも。
願い自体が無い。
ベクトルがないということか?
rashita.iconちなみに以下の記事で出てきた表現で、
本書はその第2巻で、
「幸せで平安な人生を送るためには、求められたことを人に与える行為が欠かせない」
をテーマに、3冊の本を紹介しています。
これまで自分はそんな人生を送りたいなどと思ったことがなかったな、と考えたのがきっかけでした。
ikkitime.icon
「ドーパミンに引きずられれば(突き動かされれば)必ず疲れる ガチャを引けば、必ずしもハズレることもあって、かつ、落胆は昂揚の3倍記憶に残る。
だったら、静かで平穏な状態を最初から目指したい、という発想が出てくるのはありえなくない。
rashita.icon「幸せで平安な」と「静かで平穏な状態」は近似(ないしは等価)なのでしょうか。似ているとは思いますが。
というか、上で書かれているように、「幸せで平安な」状態というのが僕にはよくわからないのかもしれない。
nora.icon「無難でマイナスのない安全な人生」と「幸せで平安な人生」はちょっとニュアンスが違うような気はします。
「幸せで平安」はあくまで高い位置で安定したいというイメージでしょうか。
やりたいことはやれて脅かされないこと、そしてそのやりたいことはスリルを求めるものではないこと?
「自由にやりたいことをやりたい」+「自ら危険をおかす気はないから、その他の要素に脅かされないことを求める」というニュアンスか。
とりあえず「他人に脅かされたくない!!」という気持ちは感じます。
「幸せ」や「平安」を脅かすのが果たして常に他者なのか、ということは論点になりそうですが。
「幸せで平安」は明らかにポジティブなイメージなのにアクティブなイメージを伴っていない言い回しなのがなんとなく不思議。
「動く≒働く」だと、「(食うために)働かなくていい」というありがたさが「安らか」なイメージと繋がるかも?
でも「動く」が食うために留まらない価値を持つにしても、「自己実現」とか言い出すとちょっと過剰な感じがする。
「アクティブだから幸せ」と「非アクティブだから幸せ」は反対のようでいて反対ではない気がしてきた。
(このページの趣旨からは離れ過ぎたかもしれない)