巨人の肩とフリーライダー
こんにちは、大学生の者です。『独学大全』とても楽しく読ませていただいております。最近、読書猿さんの記事等で多く見かける「フリーライダー」という用語に対して興味が湧くとともに、自分は間接的に本当に多くの人に助けてもらっているんだということを実感しました。しかし、自分の中で新たなモヤモヤが湧いてきてしまいました。それは、「フリーライダーという用語は最悪の場合、ある意見に対してどんな反論も許さない用語として用いられてしまうのではないのか」というものです。あらゆる人や物事、そして知識等が間接的に自分の思考の土台になっている現代社会では、結局はそれらに対してフリーライドしているわけで、それを考えていては、自分が間違っていると思うことや、非合理的な事柄に対して反論できなくなってしまうのでは…と考えるようになってしまいました。もちろん、そんなはずはないとは思うのですが、落とし所というか、立ち位置というか…。読書猿さんのご意見をお聞かせください。 論点を整理しよう。
あらゆる人や物事、そして知識等が間接的に自分の思考の土台になっている現代社会では、結局はそれらに対してフリーライドしているわけで、それを考えていては、自分が間違っていると思うことや、非合理的な事柄に対して反論できなくなってしまうのでは
二つある。それぞれは正しいだろうか。
1. あらゆる人・物事・知識が直接間接問わず自分の思考の土台になっていることは、すなわちそれらにフリーライドしていると言えるか。
2. また、フリーライドしているとして、非合理的な事柄に対して反論できなくなるか。
論点1.1
まず、フリーライドしているとはどのような状況だろうか。フリーライド(ただのり)は、一方的に使うこと、対価や代償を支払わないことと言えるだろう。便益は得るが、しかし見返りは支払わない行為。また、それを行うものがフリーライダーである。
活動に必要なコストを負担せず利益だけを受ける者
たとえば一冊の本があるとして、それは著者の知識によって書かれているが、その知識は先人から学んだものであり、その先人はさらなる先人からと考えていくと、その本から知識を得る為の適切なコストはいくらになるだろうか。もちろん、膨大なものになり、それでは私たちの知の営みはあっという間に頓挫してしまう。
逆に言えば、私たちは知識を得る為のコストを真の意味で適切に支払うことはできず、常にその一部分だけしか支払っていないことになる。まずこの点で、強いフリーライドと弱いフリーライド、という概念が導かれるように思う。
論点1.2
次に分散的な費用分単位ついて考える。
たとえば車の保険は、それを使用する場合に限っては費用対効果が抜群によく、一切それを使わない人は「可能性」という便益しか得られない。単にお金の流れだけを見れば、保険の使用者は弱いフリーライド(ごく一部だけの負担)をしていることになるが、それは批難されるものではない。
また、消防や警察などは税金によって運用さえているが、これも等しく直接的な便益が行き渡っているわけではない。むしろ、社会制度というのは市場原理ではうまく解決できない便益の偏りを調整する為の装置だと捉えられる。
論点1.3
では、知の営みについての「必要なコスト」とは何だろうか。 一面には金銭的対価であろう。生きていく上で必要、ないしはあった方が良いものでもあるし、また知を営む人間が新しい情報を得るための活動費としても利用される。
では、お金だけがあれば知の営みは成立するだろうか。小さいモデルで考えても、それはNoであろう。たとえば100人の村があり、皆が家に篭もって思索にふけっているとしてその村は存続できるだろうか。もちろん、無理だ。お金があっても、食料品を売ってくれる人がいない限り、知の営みを継続することはできない。
また、十分に払うお金はあるけども、誰も情報を他の人に教えよう(売ろう)としない場合でも同様だろう。
つまり、ここでもともとの話がひっくり返される。「あらゆる人や物事、そして知識等が間接的に自分の思考の土台になっている現代社会」は、私たちの何気ない行動一つひとつが、他の誰かへの貢献になっているのだ。私たちは社会に参画し、その維持に努める限りにおいて、「弱い費用負担」を行っている。そうした活動の総体がなければ、そもそもの知の営みが成立しないからである。
論点1.4
よって、よほど特殊な生き方をしているのでない限り、そもそも私たちは「あらゆる人や物事、そして知識等」にフリーライドしているとは言えない。もちろん、特定の分野に限れば、フリーライドを行うことはできるのだが、社会全体の知の営みに敷延することはできない。
また、弱い費用負担には分割的な金銭の支払い、社会維持のための活動(通常のビジネスを含む)だけでなく、自分が受け取った知識を伝承したり、可能ならばバージョンアップ、ブラッシュアップしていくことも含まれる。
そのような活動を、私たちは巨人の肩に乗ると言う。巨人の肩にフリーライドすることはできない。そこに乗る為にはたくさんのコストを支払わなければならないし、そうして肩に乗って高い場所から風景を眺めているその当人が、やがては巨人の一部になっていくからだ。 そして、それはこれまで自分が得てきた知識を持って、「非合理的な事柄」だと感じることに反論していくことも含まれる。そうした活動こそが、私たちが担える費用分担なのである。
その他思い出した記事
巨人の肩に乗ることは、いずれのときか自分もまたその巨人の一部になることを意味する。人と人がつながり、情報と情報がつながる。そして、次なる世代への礎となる。
https://gyazo.com/05a0ac8f9011db05e805a7e8c1f6820d