共有プロジェクトで何を書いたらいいのかわからなくなる問題
nora.icon
(Unnamed Campに限らない一般的な話およびUnnamed Campについての所感)
何を書いたらいいのかわからなくなる問題
共有の場には目的が必要と感じる
雑談なのか
共通のゴールがあるのか(企業や研究室には当然ある)
個々人が設定したゴールに向けてそれぞれ思索するのか
なぜ目的が必要なのか?
交流の可能性を前提として書く時、他の人にとって意味があると確信できないことは書きにくい
「他の人にとって意味がある」というのは目的の存在によって現れる
雑談が目的なら「雑談の種になりうる話題を提供する」ことが「他の人にとって意味がある」こと
Unnamed Campにページ作成のガイドがほしいので、傾向を整理したいで傾向を考えたが、こういった傾向のものがスルッと書かれる時、そこには何か目的がある
「知りたいことがあるので誰か教えて」
「知的生産界隈にとって必要な思索だ」
「自分自身のテーマに沿って考えたことを聞いてほしい」
Unnamed Campに「目的」はあるか、ということを考えてみる
記載されていること
知を営む
このプロジェクトの真なるテーマが「知を営む」
読む・書く・考えるのトライアングル(読む・書く・考えるを一体のものとして接続させる)
言葉にする練習
意識的に「ちょっとしんどいこと」をやっていく必要
そして
アトミックさを目指す
Unnamed Campとは何か
他の人との知識の持ち寄り、交流、相互作用が発生する場所
つまり
読む・書く・考える、を切り離さずに繋がりを感じながら進めていく(ということを実践する、またはそのことについて考える)
自分の言葉を使って読み、自分の言葉を使って書き、自分の言葉を使って考える(ということを実践する、またはそのことについて考える)
認識を洗練させていくことを目指し、自分の力で少しずつアトミックにしていく
それはちょっとしんどいが、やっていく必要がある
個々人の中で行われるそれらの過程・結果・見解を共有し、他の人の読む・書く・考えるに繋げる(ということを実践する、またはそのことについて考える)
ということか(とnora.iconは解釈した)
思うに
Twitterやブログなどに対する相互の言及等で偶発的に生じている作用を加速させたいということ
なぜそれらの場でそういった相互作用が生じるのか?
自分の発信が自分のものとして残り、蓄積されていく安心感によってモチベーションが継続する
相手の個性・専門性を踏まえて言及することによって的を射やすい
相手のバックグラウンドによって自分の反応の有効性を判断している
一方的に自分が知を営めていることもある(基本的には一方的であろう)
staさんの言う「ダシにする」
というか梅棹忠夫の言う「本をダシにする」
ただ「持ち寄り」には「持ち寄り」の形があり、自分の中で起きている知営を生のまま共有することはできない
ちょっとしんどい努力をして共有可能・活用可能な表現を作っていく必要
個々人の場で行われている生の知営を勝手に拝見してダシにすることはあり得る
nora.iconの個人的な心境
それぞれの問題意識と個性を認識する必要を感じる
誰に何を期待できるのかが曖昧だと話しづらい
それが(一方的に)わかる倉下さんに話しかけているかのような状態になっている
あるいは、それぞれのバックグラウンドに関わらない共通認識があるとやりやすい
例えば
「読む」「書く」「考える」とは何か、を読む・書く・考える
「読む」「書く」「考える」の間に起こっていることは何か、を読む・書く・考える
誰かの言説の紹介、実体験の報告、抽象化の試み
(これまでの時点で共通認識というものをあまり鮮やかに感じられなかった)
世の中への不満(愚痴ではなく「自分ならこういう理想を思い描く」の形で)や知的生産というものに対する認識、「読む」「書く」「考える」についての自分の状況を表現する、ということを通して解消されそう
(改善求ム、みたいな意味で書きたかったのではないけど読み返してみると自分の実際のテンションよりちょっと強い表現になっていた感じがあるnora.icon)(一般化した共有プロジェクト論を語りたいということの方に比重があります)
共有プロジェクトで「自然に行われる書き込み」とはどんなものだろう?
→【緩募】共有プロジェクトに書きやすいと思うとき・書きにくいと思うとき