一次PV至上主義と二次PV至上主義
自らの活動の結果として、たくさんPVを得て、そこから何かしらの利益(主に金銭的利益)を得た人がいるとして、「やっぱりPVを集めてナンボだな」と認識したとする。
これを一次PV至上主義と呼ぶとする。
その一次PV至上主義者が、自分の考えを表明したとする。
定義からいって、一次PV至上主義者はPVを持っている→たくさんの人にその意見が目に触れる
その言説は、トートロジーな「証拠」がある
その言説が耳に入っているのは、その人がPVを持っているから
そのような言説の普及から、「そうか、PVこそが重要なのだ」と思う人が出てくる(感化される)
それを二次PV至上主義と呼ぶとする。
個人的には、この二つは異なる存在だと思うし、PV集めで失敗するのは後者だと思う(というか前者は定義的に失敗しない)。
「感化される人」は強そうで正しそうな言説に感化されてしまうもので、そこにたまたまPV至上主義が入ってくると結果として「二次PV至上主義」になってしまう。
感化された結果、自他の得にならない結論に至ってしまうという意味での失敗。
自他にとって嬉しいものに感化されれば好循環が生まれる。
rashita.iconおそらくそういう失敗パターンの一つだと思います。
一次PV至上主義の「やっぱりPVを集めてナンボだな」という認識から、「成功するためにはPV」という雑なリバースエンジニアリングが行われていて、それが反証を経ないまま、成功法則として流通していく、という風に情報流通的には分析できるかと思います。 rashita.iconある種の傾向を持った言説は、似た失敗を生みやすいのだろうと予想。
nora.iconなぜその言説が感化し得るパワーを持ったか、という議論ができますね。
PV至上主義には「証拠」があるからという話でしたが(上記)、「証拠」が目に見えるということ、そしてそれが本当に「証拠」であるような気になること、が必要か。
本当は複雑であるものを単純であるように見せかけることに成功したときにこの失敗パターンが形成される?
nora.icon逆に、「そもそも単純だが自他にとって良いこと」を感化する・されるというのが発生したときには好循環ができやすいか。
ある程度単純でなければ感化は発生しにくい。