『独学大全』と『勉強の価値』
『独学大全』の「独学」が精緻に定義づけできなくても、あの本では一つのまざなしがうかがえる。つまり、一般的に多くの人が認識している「学ぶこと」や「勉強」は、一番広い地点からみたときに、ごくごく狭く小さなものでしかなんですよ、というまなざしである。 『勉強の価値』の中で森博嗣は、子供の頃の勉強はしんどいものだが、大人になると自分がやりたいことのために学習を位置づけられるので、めちゃくちゃ楽しくなると説いている。 たぶん、この二つが視野に収めるのは同じ風景だろう。
私たち日本人は、義務教育を経て、おおむね高校もその範疇に加えられる。そして、大学進学率も極めて高い。幼少期および青春の多くの時間を学校という空間で過ごすことになる。極めて特殊に整備された空間だ。
車の教習所には安全なコースが設置されているが、それと似ている。環境がコントロールされた実験とも同じだ。それはたしかに安全であるし、教育的でもあるのだが(教育なのだから当然と言えば当然)、しかしあのコースを運転しているだけで「車を運転する楽しさ」が十全に味わえるかというと微妙だろう。なにせ景色はまったく変わらないし、予想外のイベントも起こらない。
しかし、教習所のコースで車を運転するのが面白くないからといって、車を運転することすべての楽しさが否定できるわけではない。むしろ、最初のつまらなさをくぐり抜けた先に、とんでもない面白さが(未知の面白さが)待っているのである。 だから『独学大全』では「独学」という言葉を用いて、私たちの認識にこびりつく「勉強」という言葉が相対化されている。それが著者の意識的な選択だったのか、たまたまそうなっているのかは判然としないが、どちらであれば、機能としてはこの言葉遣いはそのように働いているように感じる。
実際出版業界では、「勉強」というと、受験勉強・資格勉強が主題化されていることが大半であり、『独学大全』はそうしたものも射程に入れつつも、もっと広く大きい「学ぶこと」の風景を描いている。そうした風景を自身も抱いている読者にとって、それはとても嬉しい仕事だと感じられるだろう。
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