「過去書いた文章の読み返し」って、できますか?
issac.icon昔から自分の文章を読み返すのに心理的障壁を感じていました。
不出来な文章を見るのが嫌だった、というのが主な原因です。
提出でドラフトを作っても論理がうまく通っていなかったり、同じ主張を繰りかえしていたり。
もちろん、こういう問題点をひとつひとつ直していくうえで一度書きだす必要は感じていました。
読書感想文、小論文、レポートだけでなく、日記・日誌も最近になるまでロクに書けたことがありませんでした。
今もこの気持ちというのはどうにも抜けていません。
書くようにはなったけれど、積極的に読み返そうという気にはならない
おそらく文章を一作品として完成させた経験に乏しい、というのがあるのでしょう
(Scrapboxで書き散らしてばかりいる)
table:ガイドとしての象限
自分の文章好き 好きじゃない 自分の発想が好き
文章見返すのが好き sta.iconrashita.iconikkitime.icon meganii.icon nora.icon
文章見返すのがニガテ issac.icon
rashita.iconなんとなく上記の2軸は関連していそう(独立していなさそう)
それと「自分のことが好ましく思えるか」というのも関連してそうですissac.icon
nora.icon自分の発想は概ね好きですが文章そのものは特に好きとは感じないのでこのマトリクスには入りにくい感じがしました
なるほど。象限を書き加えてみました(当てはまらなければ自由に追加してくださいissac.icon)
好きと苦手それぞれにマトリクスを作れるかもしれません(ちょっと考えます)nora.icon
table:自分の文章の…
内容が好き 内容は普通 内容が嫌い
文体が好き ikkitime.iconrashita.iconsta.icon
文体は普通 nora.icon
文体が嫌い issac.icon
nora.icon試しに作ってみました。
「内容」は「自分が言わんとしていること」「自分が想像しているイメージ」の好悪を指しています
「嫌い」というのは例えばいつもネガティブなことばっかり考えていてこういう類のことを書いてしまう事自体が嫌だとか
「文体」は技術や雰囲気を含めて実際に表現している文そのものの好悪を指しています
「嫌い」というのは「しっくり来ていない」とか「稚拙な感じがする」とか
そこで質問です。(御回答していただけましたら幸いです。)
? このキャンプにいらっしゃる皆さんは文章を書くことが多いと思いますが、こういう心理的障壁を感じたことはありますか。
sta.iconたまにあります
nora.icon巧拙によるものではありませんが、読み返すことが苦痛になることはあります
文章に対して何かを「盛った」とき、後からそれがとてつもないストレスになります
「自分はこのくらいのことが書けるんだぞドヤァ!!」とか
誰かに語りかけるようなものを書いてしまったときとか
issac.icon語り掛ける調だとそう感じるのでしょうか。
たとえば、「~なんだよ」みたいな文章とか
nora.iconなんかこう、「~しましょう」とか「~してみると良いかもしれません」みたいな、「導き」を書こうとしてしまった時に後から猛烈に痛々しさを覚えることがありますね。(そういう文章は痛々しいのだと言いたいのではないです)
nora.icon「読んで欲しい」と「役に立つものを書いたほうが良いのだろう」が盛られた結果、読み手にすり寄ってるような文章になっているという気持ち悪さというか。
rashita.iconびっくりするほどありません。
10年以上前に書いた小説は「黒歴史感」を感じますが、それでも「あ〜、はずかし〜」くらいで嫌悪感や、強いストレスは感じたことがないような気がします。
「書いちゃったもんだし、もう、しゃーないよね」的な(ストア哲学的な)切り離し方をしているのかもしれません。単にナルシストなだけなのかもしれません。
nishio.icon心理的障壁が皆無で、その理由も説明できます
日本語を書くだけではなくプログラムも書くからです
プログラミングは最初に書いたものがそのまま機能することは少なく、書いた時間の10倍くらいの時間を「自分が愚かであるがゆえにどこかに入れてしまったバグを探すために読むデバッグ作業」に使います
デバッグは機能するプログラムを作る上での必要不可欠なフェーズなので読むしかない
読むのが好きとか嫌いとかとは無関係だという気持ちです
? 感じていた方に質問です。今も感じておいででしょうか。もし、その障壁が弱くなることはありましたか。
sta.icon今もたまにあります
が、私の場合、障壁は基本的にかなり弱い
自分大好き人間ってのもある
/sta ← このレベルで何でも公開している程度にはぶっ飛んでいる(私は/staに書いてることは誰かの役に立つ、私はすごい、だって私自身が満足してるんだから他の人だってそうに違いない!と本気で考えている節がある) 障壁が強くなるのは
特定のネタ
いわゆる「黒歴史」と呼ばれるもの
実力や教養が向上したことによる「過去の未熟なアウトプット」
これは以前よりも目が肥えたから、かもしれませんねissac.icon
経験を積んだがゆえに過去の作品の出来が悪く思えてしまう
(これは脱線してそうですが)他人と比較したとき
自分よりすごい文章を、自分より少ない時間で出している人を見ると凹む
よくわかりますissac.icon
nora.icon今でも何かを「盛る」ようなことをすれば苦痛は発生します
割と最近まで頻発していましたが今は盛らなくなったのであまり感じない
ついでに巧拙では気にならない理由を書いておくと
上を見れば果てしなく上はいて自分の未熟さが気になって辛くなるのは確かにある
でも下を見ればこれまた果てしなく下もいて、(単に下がいれば安心という話ではなく、)自分を恥じると結構すごい範囲を巻き込んで恥ずかしいものにしてしまう可能性があり、事実として自分はどんな状態・どんな位置づけにあるのかを意識したいと考えている
こういう感覚を得てみたいですissac.icon
正直、挫折によって自尊心が粉砕された結果「少しでも進んでいる」ということにしか希望を見いだせなくなったゆえに獲得した怪我の功名的な感覚かもしれないと過去を振り返って思いましたnora.icon
ikkitime.icon基本的には自分で読むために、読んで気持ちよくなれるために書きますね。1行ツイートなんかだと別ではありますが。
「思いついた! イケる! これを言いたい」までは “書き手の自分” 的な動機だし、机に向かう、白紙のテキストエディタに向かう、みたいなエネルギーもそこから来るんですけど、
実際にそこに一単語目を置くときには、“視聴者としての自分”や“編集者としての自分” が、「(このストーリなのなら、)この単語が1番ワシにとって気持ちいいから、これを書け」って意向を示してきて、その通りに文を書いていって、文章ができあがる感じ。
書き始めるときには読み手の自分の目線が入っているんですね。issac.icon
rashita.iconたしかにブログなんかでは、「自分が読んで面白い(気持ちよい)」文章を書こうとしている感じはありますね。
issac.icon御回答ありがとうございます。
「自分の文章が好きでない」という障壁があるようなんで、それをどうやってもにょもにょできるか、というのが鍵のようです。
考えなくできるか。
nora.icon嫌いとまでは言わないものの特に好きではない身としては、実際に自分が使っている言葉の是非は置いておくとして、とりあえず自分が示したい情報を文の形で外に出すことが出来ているかどうかを考えていますね。
稚拙でも頭の中のものを読める(後から自分が脳内再生できる)形にできているかどうか、みたいな。
なるほどissac.icon
「あとから自分が見てわかるだろうか?」と質問しつつ書く。
ikkiさんのいう「“編集者としての自分”」を働かせるということかissac.icon
克服できるか。
このアプローチはあんまり好きではない。なぜだろうか?
rashita.icon分析できるか
自分の文章の具体的にどこが好きでないのか、を考えることは可能か
内容か
書き方か
稚拙さか
エゴの出方か
鼻につくのか
どこか一部の表現か
etc……
あるいは「好きなところがない」という否定の形なのかもしれない。
他の人の「好きでない文章」があるか
他の好きでないものとの共通点はあるか
などなどのポイントもありそうですrashita.icon
ありがとうございますissac.icon
どの辺が好きか/好きでないか、いつもよりちょっと負荷をかけて細かく見るとよさそうですねissac.icon