人間の二段階の愚かさ
人間の直感的な反応はヒューリスティックであり、バイアスを持つ。これが一段階目の愚かさ。これは吟味・熟慮・検討によって緩和できる。
しかし、そうした吟味・熟慮・検討といった思考も完全完璧なものからはほど遠い。
システム2も独立的に機能しているわけではなく、常にシステム1の影響を受けている。
たとえば、実際にやってみて初めてわかることは多い。
その意味で、普段慣れた行動は、行動全体からみてかなり特殊な位置づけである。
しかし、人間の人生は「普段慣れた行動」で多くを占められているから、その特殊性に気がつけない
一冊の本を書くことは、常に「これまで誰も書いたことがなかった本を書くこと」であり、具体的な行動がある種の繰り返しであっても、そこで行われる知的作用は、常にまったく新しいものである。「慣れる」ことはできない。
落語や漫才のように、同じネタを繰り返し上演するのとは違っている。
だから、本を書くことは、多くの部分が「書いてみて、はじめてわかる」を占めている。
さらに言えば、現在から見て未来は常に未知なものである。ある程度現在の事象から未来の事象を予測・推測することはできるが、完全に保証されたものではない。
ハイゼンベルクの不確定性原理、ラプラスの悪魔
未来は常に未知なもの
よって、吟味・熟慮・検討といった思考にも誤謬があり、未知があり、不確定がある。しかし、そうであるかのようには感じない。それが二段階目の愚かさ。
ナチュラル・プランニングで不備が生じないのは、普段やりなれたこと、あるいはその拡張で対応できる範囲に限定される。
事前のプランニングがいけない、ということではなく、そのプランニング通りに行うことが良いことであり、そこからの逸脱は「失敗」に属すると感じてしまうことが問題。
逆に言えば、シェイクの有用性もここにある。
熟慮した思考にすら宿る誤謬性は、何かを実際にやってみて(ボトムにて)確認することができ、その確認から遡ることで、最初のプランニングそのもの(つまり、その前提を含んで)再検討することが、(失敗としてではなく)「標準」として備わっている必要がある。