「自分の言葉で書く」というときの「自分の言葉」とはなんなのだろうか
問題提議
情報カードやZettelkastenなどで「カードは、自分の言葉で書こう」と言われるが、そのときの「自分の言葉」とはいったい何なんだろうか。何を満たせば「自分の言葉」になるのだろうか。
そもそも「言語」とは、自分で創り出した「オレオレ言語」でないかぎり、自分のものではなく借り物である。借り物である「言語」を用いて書いた「言葉」は、はたして「自分の言葉」なのだろうか。
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情報カードやZettelkastenなどを用いた知的生産の文脈において「カード」をつくる目的は、カードを外部足場として利用し、自分の頭に浮かんだ思いつきや他者から得られた概念を理解し、操作するため。大事なのは他者ではなく自分のためにつくること。
「カード」をつくるときに私たちがつかう言葉や知識はネットワーク構造であり、その構成要素は「言語」である。「言語」それ自体は借り物であっても、ひとつひとつの部品としての言葉や知識の組み合わさり方によって、そのネットワークには個性・こだわりが生まれる。人はひとりひとり歩んできた道が異なり、それまでに獲得してきた言葉や知識のネットワークーー言葉・知識ネットワークーーは人によって全く異なるものになる。
他者が発する言葉は、自分とは異なる言葉・知識ネットワークに根付いたものである。自分にとって馴染みのない言葉や表現は、自分の言葉・知識ネットワークにとっての外来語ともいえるだろう。言葉・知識ネットワークにとっての外来語は、はじめは見たまま聞いたままでしか使えない。使えたとしてもオウム返しのように、特定のパターンで使うだけである。言葉・知識ネットワークにとっての外来語を、自分に内在する在来語にするには、外来語を噛み砕き、コンパイルし、自分に内在する在来語に取り込む、すなわち、言葉・知識ネットワークを再編する必要がある。
「自分の言葉で書く」とは、見聞きした概念の単なる書き写し(コピペ)ではなく、いま現在の自分の「言葉・知識ネットワーク」を総動員して、いまの自分にとって、自分なりにしっくりと来る表現を目指して言葉を紡ぐことである。
自分の言葉で書こうとした結果、満足いく表現に落とし込めなくてもよい。言葉を紡ぐ過程で、脳が働き、理解が深まり、記憶にも残りやすくなる。また、いまは書けなくても、さまざまな経験を通じて自分の「言語・知識ネットワーク」が再編されたあと、そのとき書き直そうとしたときにしっくりとくる表現になるかもしれない。
自分の言葉で書くときには車輪の再発明/再開発が推奨される。「カード」作成時は、論文などの知的生産の最終成果物の段階ではなく、新規性やオリジナリティを問われているわけではないため、そこに付加価値はなくてもよい。他者にとって単なる焼き直しに見えるかもしれないが、自分にとって車輪の再発明/再開発は言葉・知識ネットワークを再編する機会になる。
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自分が創り出した言葉でなければ、言語自体は借り物。地に足ついた自分なりの解釈ということなのか。普段着の言葉遣いなんだろうか。
「自分の言葉」ってなんだろうか。
rashita2 知的生産の文脈で言えば、「コピペしない」であり、もう少し言えば「考えて書く」ということでしょう。 「考える」とき、思考は借り物の「言語」によって縛られているとすると、思考結果によって紡がれた言葉はほんとうに自分の言葉なのか?と思えてきてしまいました。
rashita2 いくつか論点があります。まず「言葉」というものが借り物でも、それを使って組み立てられたものがそのまま「借り物」と断じられるかどうかです。言葉が低レイヤとしたときに、それを組み合わせて作られる文は高レイヤだと言えるでしょう。(続 rashita2 「自分の言葉」と言っていますが、そこでは言葉そのものを意味しているのではなく高レイヤなものを指している可能が高いと思われます。(続 たしかに、組み合わせによって作られる文は高レイヤであり、自分が組み立てた文には別の意味(価値)が生まれているような気がするmeganii.icon
rashita2 二つ目の論点として、仮にそれが「本当の自分の言葉」ではないとしたら、どこに「本当の自分の言葉」なるものが存在するのか、という点です。「本当の自分の言葉」なんて存在しないとなれば、あらゆる知的な行為は虚無に飲み込まれてしまうでしょう。ということは、何か歯止めが必要で、それは(続 rashita2 なぜ「自分の言葉」が必要なのか、という目的から考えられると思います。つまり、本当にそれが「自分の言葉」なのかどうかは疑似問題であって、実際の問題は「それが自分の考えを確かめ、整理し、前に進める効果があるのかどうか」ではないかと考えます。 さいきんこの構図をどこかで見た(考えていた)と思っていたら『勉強の哲学』でしたmeganii.icon 真理を追い求めたとしても、掴めることはなく、どこかで歯止めをかけないといけない。それは、享楽のこだわりによって切断されるというロジック。
「それが自分の考えを確かめ、整理し、前に進める効果があるのかどうか」
「それが自分の考え(なのか)を確かめ、整理し、前に進める効果があるのかどうか」と捉えましたmeganii.icon
ナルホドmeganii.icon
「自分の言葉」 = 自分の考えが反映された文 meganii.icon
「自分の考え」 = 「主観」100%かどうか、こだわりから生まれ出てくるものかどうか
みたいなことを考えました
これこそ、自分の言葉で書き残しておきたい
rashita.iconカード法などで、「カードは、自分の言葉で書こう」と言われるが、その内実は何だろうか、という問題提起ですね。
まずはっきりしているのは「コピペはだめ」ということが含意されていること。
ではなぜ「コピペ」ではダメなのか。
これは簡単で頭に入らないから。
認知的にも言えるが、コピペで済ませると人はその内容に注意を向けない。
注意を向けないものは、覚えないし、覚えなければ理解もできない。
この構図をひっくり返すために(つまり、覚えたり、理解したりするために)はコピペはいけない、とする。
対象に注意を向けるように仕向ける。
では、コピペしない場合はどうなるだろうか。
その対象について、その時点で自分の頭の中にある概念を描写・表現するしかない。
おそらく不完全になるだろう。
そしてめちゃくちゃ疲れるだろう
しかし、それが必要。
不完全であることを理解する→知識の空白に気がつくことができる→そこに新しい知識が入ってくる
めちゃくちゃ疲れる→ニューロンが同時発火している→記憶につながる→理解につながる
この効果を求めるために「自分の言葉で書こう」と言われる。
よって、これは別に「オリジナリティのあることを述べよ」というのとは違う
それは知的生産の最終成果物の段階で言われること
カード法における「自分の言葉」は、頭を使って情報を処理しなさい、ということを促しているメッセージ
提案だが、「自分の言葉」というよりは「自分なりの言葉」とか「自分なりに書いてみる」という方が、上記のようなオリジナリティ制約を喚起しないのではないか。
meganii.iconコメントありがとうございます。自分なりに書き直してみました。