Scrapboxは議論がやりやすい
Scrapboxは人に紐づかないディベート(ディベートというよりディスカッション)がやりやすい気がしたinajob.icon (ちょっと違うかも、とりあえず書き始めてみる
普通のディベートは人と意見が紐づいていてそれぞれの論を言い合う
Scrapboxだと人と意見のつながりが希薄に感じられる気がする
実際に希薄になっていると思う、当人がどう思っているかは別としてkuuote.icon
強制的に人から切り離される
nishio.iconの好きな人間のバグっぽい物と関係がありそうinajob.icon あー君はそういう人なのね、 と決めつけてくる人がいる気がする
(これも決めつけだからなんかおかしな感じになってしまったが・・)
多分僕は切り離しがちnishio.icon
自分が人と結びつけてる例としてパッと思いつくのは川喜田二郎とか西田幾多郎とかニーチェとかドラッカーとかバルタザールグラシアンとかユージンジェンドリンとか…
何が共通点なのかなと考えてみたが、その人のアウトプットを理解することに僕が今までにそれなりの量を使ってるところかな
あー、わかった
それが「自分は空気を読むことが困難なのだから人に空気を読むことを要求してはいけない」的な考えに繋がる で、内面が不可知なのでAさんがXと発言した時に「Aさんが」の部分をあまり重視せず「ここにXという発言がある」と認識する
観測時に人間味を覚えないみたいな?takker.icon
これは普通のことかもcFQ2f7LRuLYP.icon
銀杏の実が落ちていたので「あ、この辺にイチョウあるんか」と気づく
イチョウは葉っぱから気づくか
「cFQ2f7LRuLYP.iconさんという木から古典の木の実が落ちてくる!この木の実はうまい!幹をゆすってみよう!」
わかるcFQ2f7LRuLYP.icon
「からくり」でYoutube検索したら出たcFQ2f7LRuLYP.icon 僕のイメージとはちょっと違うnishio.icon
検索するのは「あっ、こんな果実が世の中にはあるのか、他にもっと落ちてないかな」と広い範囲を探してるイメージ
「幹をゆする」は「この木からもっとこの果実が落ちてこないかな」のイメージ 具体的な行動としてはそれを書いた人に「それが書かれたことで僕はとても楽しい」とか「この内容に僕は興味がある」とか表明すること
意外と人を認識してた
事後的に認識するというところが特徴?
ここに書いてあることを読む限り自分も似た感じinajob.icon
浮気も自由で単に論理のツリーを成長させて、みんながギャラリー的に見てる感じ
ここにいるメンバーがそういう使い方をしてるだけかもしれない
仕事していく中でもディベートのように人と意見を紐付けて戦うより、論理を展開させて対立項をそれぞれ分析する方が楽だし結果も良くなる気がしてきたが、これは一般的な感覚なのか?
Twitterではこれはとてもやりづらいと思う、発言と人が強く結びつく
slackでもそうcFQ2f7LRuLYP.icon Twitterではこれはとてもやりづらいと思う、発言と人が強く結びつく
https://gyazo.com/353cf5096130edd1c0cbfd9145a4450cnishio.icon
「えっ、人なんか居たっけ」という気持ちの方が強い
同期的コミュニケーションにおいても少しやりづらさがある気がする
Aが話すならAの論理擁護なのだなという前提がわかりやすいが、そうではないので、、
しないはともかく感じないが難しいtakker.iconkuuote.iconnishio.iconcFQ2f7LRuLYP.icon
井戸端で1,2回反応してしまった
難しいが「人格攻撃であるように感じる」という時に、それを受け止めるかどうかはこちら側のことnishio.icon
傾聴する方法
考えを発展させる方法
などなど、意識しないと身に付かない技術が必要になってくる
コードのお話
日本人は議論が苦手、という話はよく聞くが、詳細を読んだことがなかったし、自分も議論の訓練を受けたわけではないので知らないが・・ まず、自分の明確な意見を持つことを前提とし、相手の異なる意見を認めることが出発点
自分の明確な意見を持つことを前提 に違和感を持った
これは自分はできていないぞinajob.icon
その場その場では、論理は通っているが、どっちの陣営というわけではない
上記リンク先を読めばわかるのかな
わからないように思う&&自分の思い込みのような気がしてきたinajob.icon
意見を明確にするところから始めているきがするcFQ2f7LRuLYP.icon
書き出してctrl+方向キーで整理するところから始めてる
英語による対話の定義は、discussionの1形態で、2集団の間での課題を解決し、不同意を解消するためのフォーマルな討議というものですが、哲学者の鷲田清一氏の言を借りて哲学的な定義をすれば、「対話」は、ロゴス(言語と論理)を分かち合って学ぶプロセスであり、説得ではなく、自発的に意見を変えることを良しとし、それを負けとはせず、むしろ、新しい意見が出てくる可能性の追求と捉えられると言えるでしょう。 Scrapboxで行われている人に寄らない議論はこれが近そう
議論を経て欲しいものが明確になった例だcFQ2f7LRuLYP.icon